福島のぶゆきアーカイブ

これまでにWebで公開したものの記録です

敗戦真相記を読む。

 戦前・戦後を通じての実業家、政治家であった永野護の『敗戦真相記』を読んだ。サブタイトルには「予告されていた平成日本の没落」とされている。敗戦直後の昭和20年9月に行われた講演会の速記から構成されているため、大部ではないが、日本人と日本国の欠陥を簡にして要に言い得ており、今でもまったくそれが変わっていないことに愕然とする。

 同書ではこのようなエピソードが紹介されている。

「アメリカのニュース劇場で東京空襲の映画を上映するとき、日本なら「日本空襲何々隊」とつけるべきところを、そんな題はつけないで「科学無き者の最後」という表題を付しているということです。ああ、科学無き者の最後!! アメリカは最初から日本のことをそう見ており、まさにその通りの結果になったと言い得ましょう。」

 そしてさらに、このようにも述べている。

「科学兵器の差というものは目に見えるから皆納得するが、目に見えないで、もっと戦局に影響を及ぼしたものはマネージメントの差です。残念ながら我が方は、いわゆるサイエンティフィック(科学的)マネージメントというものが、ほとんどゼロに等しかった。」

 つまり、日本の敗戦は物質上の科学の欠如にあるのではなくて、組織運営などのソフトウェアにおける科学の欠如にあるのだということを喝破し、「日本の政治の根本的な仕組み」にあると言うのだ。そのよう要因の一つが、リーダーの不在にあると言う。

「建国三千年最大の危難に直面しながら、如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなく、ただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わいわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に捲き込まれ、押し流されてしまったのであります。」

として、軍部の情報収集・分析能力の無さや独善性からくる非合理的作戦や官僚的行動を列挙している。

 そして、もうひとつの要因に日本の官僚制度を挙げている。

「日本の官吏は、・・・人民に対して、陛下の官吏として独善的にのぞむ癖に、肝腎の行政能力というものが、極めて貧弱です。今度、アメリカの進駐軍が入ってきて、日本の官庁と交渉して最も驚いたことは、日本の官吏が上になるほど物を知らない。・・・日本の局長はほとんど何も知らない。課長はぼんやり知っている。事務官はあらかた知っているけど、細かいことは属僚(注:今でいう「ノンキャリ」)に聞かなければわからないという状態で、地位が上になるほど勉強していない。大臣に至っては、むしろ仕事を知らざるをもって得意とするがごとき現象すらある。・・・しかし何人にも才能はあるものでして、日本の官吏にも非常に優れた才能が一つある。それは何かというと責任回避術である。」

 ごもっとも、と膝を叩く人も多いのではなかろうか。この官僚文化は、今もって全く変わっていないのではないか。

 さらに、このようなマネージメント・システムとなってしまったのは、伝統的な民族的統一心理にあると指摘する。

「何故、こうまで軍部の独裁を許したかということになると・・・重臣、議会、財界、文化各方面の人たちの無気力によるところが多いことを認めざるを得ません。・・・日本人はたとえ一部の意図に引きずられたにせよ、日本という国家の動きとして内からも外からも見なければならないような動向をとるに至った暁には、たとえその動向が己の信念と相反するような場合でも、国家への奉仕のために大なり小なり、おのれ自身を捧げなければならないという三千年来の伝統を持っている・・・不幸にして、今度の戦争では、この民族的な統一心理のために、かえって失敗を致命的ならしめた。」

として、危機にあたっては誰かから命ぜられるままに動くことがお国への奉仕だという集団心理にリーダーたるべき人たちを含む国民すべてが巻き込まれてことによって、結果として誰も国家としての冷静な判断や国家としての目的意識を持つことがなくなってしまい、致命的な敗戦を招いたのだとしている。

 しかしその上で、

「私は、日本再建のエネルギーを、やはり、この民族的な統一心理に見出そうとするものです。」

として、国家の進路を、あくまで合理的に計画的に道徳的に設計し、それを全国民の意思で決定するような仕組みが必要であるとしている。すなわち、

「政治の仕組みということが、今後の日本の命運を決する」

と結論づけているのだ。日本は議会中心の政治でしか再建できず、そして

「議会中心の政治を行うためには必ず確固たる基礎と明白なる主張を有する政党の出現を必要とします。」

 さらに、

「最後にすべてを決するのは、国民の政治常識ですから、国民自体に今までのような・・・「長いものに捲かれろ」式の封建的思想が染み込んでいたのでは、議会政治は軌道に乗らない。」

としている。

「この日本精神の近代化は明治維新において行われるべくして行われなかったもの」

で、敗戦の結果とは

「ある意味においては軍事的敗北よりも、大きな文化的敗北であり、この文化的敗北が、むしろ軍事的敗北の根本をなしているというべきです。」

と結論づけているのだ。

 私がこの原稿を書いているのは、平成25年の暮れの押し迫った時。政権交代の幻想が崩れて第二次安倍政権が誕生し、官僚たちが取り囲む強い権力を持った官邸の前に野党はバラバラ、与党ですら党内できちんとした国策や政策の論議が行われているとは言い難い状況にある。そうした中、史上最大得票で都知事に就任した猪瀬氏は大きな混乱の中で都知事を辞任し、安倍総理の靖国参拝が大きな騒ぎとなっている。あの敗戦からまもなく70年。最近では日本の敗戦を忘れたかのような勇ましい論調も数多く出されているが、果たして私たち日本人は、明治維新ではなしえなかった「日本精神の近代化」をこの戦後に成し得ただろうか? 議会中心の政治を行うに足る確固たる理念を持つ政党を作り上げ真の政党政治を実現したであろうか? 歳の暮れに永野護氏の言葉は深く突き刺さる。今を生きる私たちが「日本精神の近代化」を成し遂げるために、真の政治改革の実現に向けて来年も自らの信念を一人一人に訴え、行動していくしかない。皆さん、本年も一年、この小難しいブログにお付き合いいただきありがとうございました。良いお年をお迎えください。