福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

3.11から5年・・・

あれから5年。茨城県東日本大震災5周年追悼復興祈念式典が県庁で開催され、献花をしてまいりました。犠牲になられた方のご冥福をお祈りしますとともに、今なおさまざまな困難な状況にある皆さんにお見舞いを申し上げます。被災地の国会議員として、決して忘れることなく被災した方々に寄り添ってまいります。

 開式までの間に震災直後の県内の映像が流され、あの日の記憶がすこしずつ薄らいでいく中で、いろいろなことを思い出しました。電柱が傾き、見慣れたビルが崩壊し、不思議な静けさの中で市役所の駐車場で呆然と立ち尽くしたこと。何も明りのない寒い夜に、暖をとるために家族3人で車で過ごした夜空に見た見事な星空。ガソリンや食料を求めて殺伐とした空気が流れていた路上。伝統的建造物の旅館の玄関で呆然と途方に暮れていて座っていた主人。ペルーのフジモリ大統領にも送った巨大な焼き物が崩落してがっかりしていた頭領。震災の後、気落ちしてこの世を去っていった方々の顔も思いだしました。

 地震の4日後から、バスや鉄道を乗り継いで上京して国会に行き、それから地元からの要望をとりまとめる国会議員団の事...務局として、復旧・復興のために走り回りました。私がいろいろな役所に掛け合っていることを聞いて、他の県の団体の人たちも相談にやってきました。本当にてんてこ舞いの毎日。復旧・復興は一人の力ではなく、国会議員、県、市、それぞれの団体、地域の皆さん、さまざまなボランティア団体、みんなで成し遂げたものですから、自分から「あれをやった、これをやった」ということは決して言うまいと思っています。が、気がつけば自分の選挙活動はおろそかになって、消費税増税決定後の解散では苦杯を舐めました。

 5年の月日が過ぎると、そんな小さなことはどうでもいいと感じます。かつて東海村でJCO事故が起きたとき、私は不眠不休で原子力防災体制を作る仕事をやりました。しかし、10年たって東日本大震災原発事故が起きた時、JCO事故の経験はほとんど生かされなかった。反省や記憶は風化され、10年の間に危機管理体制は骨抜きになっていました。福島の浜通りの苦難を思うと、今でもそのことを私は悔いています。東日本大震災の時に感じた「文明の曲がり角」にあって、今こそ近代物質文明を乗り超える社会を作らなければならない、という思いをもう一度貫いてまいりたいと改めて思いました。

 会場に中継された映像から、天皇陛下が「特に、年々高齢化していく被災者をはじめとし、私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心にかかります」とおことばを述べられていました。どこまでも国民を思う大御心は深い、と心震える思いがいたしました。しかし、その陛下のお言葉を聞いている私の横には、腕を組んで居眠りしている国会議員が。昔なら不敬罪です。もう震災の風化がはじまっているのかもしれません。私たちは、しっかりしなければなりません。




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