〇もう一つ、菅総理の施政方針演説について。「役所が作った短冊をホチキスで止めただけ」という批判がよくなされる。それもその通りなのだが、通常国会での施政方針演説が来年度予算案に計上されている政策の説明という性格がある以上、ある程度はやむを得ないものと言わざるを得ない。
むしろ、今回の施政方針演説ほど、これまでの日本の国会の歴史上言葉が死んでいる演説はない、と私は非常に虚しい思いになってしまった。それは、たとえば冒頭に「私が、一貫して追い求めてきたのは、国民の皆さんの「安心」そして「希望」です」というような、誰にも異論がない当たり前の正しい言葉の羅列であることによるものだろう。
他にも「大事なのは、必要な方に必要な医療をしっかりと提供していくことです」とか、「我が国の領土、領海、領空、そして国民の命と平和な暮らしを守り抜くことは、最も重い使命です」とか、「憲法は、国の礎であり、そのあるべき姿を最終的に決めるのは、主権者である国民の皆さまです」など、「雨が降ったら傘をさしましょう」という程度の陳腐すぎる言葉が繰り返し語られる。
そう言えば、菅総理になってからの自民党のポスターのキャッチフレーズも、「国民のために働く」という陳腐の極みの言葉だった。国民のために働く以外の政治など、いったいどこにあるというのだろか。この言葉を使って政治家としてポスターで訴えていことは、一体何かあるのだろうか。
私は、政治というものは、一人の人間が体の奥底から出てくる言霊や行動を示すことで、多くの人々の心身を動かし、その時代の社会に何ものかを生み出し、歴史を紡ぐことであると考えてきた。そして、一人一人の価値観や欲望はさまざまであっても、それらに一定の方向性を与えたり、まとまった動きに束ねていくことで、世の中の摩擦や対立を極力減らしていけるような存在が政治家であると考え、私自身がそのような存在になりたいと思い、政治を志してきた。
いったい、菅総理のこの演説から、そのような政治家としての役割は見出せるのだろうか。そう思っていたら、著述家の菅野完氏がfbでちょうど干支の4回り前の昭和48年の通常国会での田中角栄首相の施政方針演説を紹介していた。
そのひと言目は、「世界が注目し、待望していたベトナム和平は、明日を期して実現することになりました」で始まり、長い時間をかけて世界情勢についての認識の陳述が続く。「わが国が直面している緊急課題は、ベトナムに実現しつつある平和を確固たるものにするための貢献であります」という宣言などは、「国民のために働く」という陳腐なキャッチフレーズと雲泥の差の、いま世界で起きていることから日本の現実を見つめようとする格調高いものだ。
各省庁の政策を説明する短冊部分も、「昭和四十八年度予算においては、社会保障費二兆一千億円を計上いたしました。理想にはほど遠いかもしれませんが、最善の努力をいたしました」と率直に語り、言葉に血が通っている。一つ一つの政策に、どのような根拠で、どのような判断に基づいて決断したかが、具体的に説明される。その上で、「社会保障は、国民各層の連帯感にささえられ、経済成長の成果が社会のすべての階層に対して行き渡るものでなければなりません。私は、引き続いて社会保障の充実に努力してまいります」と言われれば、国民もつい「次の政策を待ってみようじゃないか」と引き込まれてしったことだろう。
48年経って、この両首相の演説の差は、まさにこの間の政治の劣化と日本の凋落を残酷なほどに物語っている。三島由紀夫の没後50年の初めての国会で、三島由紀夫が自決する4カ月前に書いた「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」ということが現実となって、富裕ですらない落日の経済大国の姿としてまざまざと現れているのだ。
でも、私は嘆いているだけではいたくはない。今日の野党の代表質問についても、あえて論評はしない。これ以上落ちぶれようのないところまで来た我が祖国を甦らせるのも、日本人の誰かが言葉と行動で国民を奮い立たせ、新しい道を切り拓く先いていくしかない。私も、そのような存在の一人になれるように、精進するのみだ。
さて、これから始まるバイデン新大統領の演説は、どのようなものだろうか。もう、世界は大きく動き始めている。