福島のぶゆきアーカイブ

これまでにWebで公開したものの記録です

東京五輪開幕と日本

〇東京五輪が、いよいよ開幕。直前にも、さまざまなスキャンダルに基づくトラブルが相次いだ。開会式を見ていて、全体的に年末のテレビ番組のような、軽い、弛緩した、安っぽい空気を感じざるを得なかった。

 とりわけ、今回の演出は、世界に誇る長い歴史と独特の文化を持つ日本を全く感じさせないどころか、それを無神経にアレンジした無国籍感が鼻についた。職人による木遣りをアレンジした演目には、修行を積んだ職人の集団が醸す「いなせ」さは全く感じられない。市川海老蔵の見得も、ジャズピアノとマッチしているようには思えない。海老蔵もジャズも素晴らしいのだが、その二つを合わせることで何らかの新しい価値を生み出してはいないのだ。流れる音楽にも、それらを使う意図のあざとさが見えるようで、感情移入することができなかった。

 五輪が、開催国のその時代の世界での存在を象徴するものになるのだとするなら、今回の開会式は、かつて三島由紀夫が言った、

「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」

という、日本のこの半世紀の歩みを如実に表すものであったのではないか。

 唯一感動したのは、自衛隊らしい、不必要に鯱張っていない整然とした動きでの国旗掲揚と、1800台のドローンによる上空での地球の演出であった。しかし、これもIOCのパートナーである米国のインテルの技術であるというから、「富裕な経済大国」から独自の先進技術を失った「過去の経済大国」への転落を象徴するものだったのかもしれない。

 それでも、開会宣言を簡潔に述べられた天皇陛下の凛として気品のあるお姿は光り輝いていた。陛下が宣言をされても起立すらしようとしない、今の日本の政治を象徴する弛緩しきった菅首相は、それ以外の時も時折映る姿は暗く、眠そうな死んだ眼差しをしていた。一方の陛下は、いつ映られても、背もたれに背中を着けないで溌剌毅然としていらっしゃった。

 これこそが、「正気」である。水戸学では、国が困難な時にあっても、天皇と共に紡いできた太古からの歴史を振り返れば、必ず「正気」に立ち返った判断をした者によって、この国が護られてきたと教える。

 藤田東湖は、「天地正大の氣、粹然として神州に鍾(あつま)る」で始まる「正気の歌」で、

「知る人亡ぶと雖も、英靈、未だ嘗て泯(ほろ)びず。長に天地の間に在り、凛然として、彜倫(いりん)を敍す。孰(たれ)か能く之を扶持するものぞ」

と歌っている。「正気」を知る者が日本にいなくなったとしても、この国には「正気」はどこかに存在し続け、ある時に必ず表に出てきて日本を正しい道に導くとしているのだ。

 私たちは、開会式での天皇陛下のお姿に、今の時代に忘れられた「正気」を見いだし、日本を正しい道に再び戻すために立ち上がらなければならない時なのではないか。一人でも多くの皆さんが、この五輪の開会式でその思いに至るのであれば、どんな安っぽい演出であったとしても、この開会式がまさに「正気」が降りてきた時になるのである。

嗟予雖萬死 豈忍與汝離
(ああ、われ万死すといへども、あに汝と離るるに忍びんや。)
屈伸付天地 生死又何疑
(屈伸天地に付す。生死また何ぞ疑わん。)
生當雪 君冤 復見張四維
(生きてはまさに君冤をそそぎ、また四維を張るを見ん。)
死爲忠義鬼 極天護皇基
(死しては忠義の鬼となり、極天皇基を護らん。)

www.nikkei.com