福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

文芸春秋11月号「このままでは国家財政は破綻する」を読んだ

〇巷で評判となっている、財務次官矢野康治さんが文芸春秋11月号に書いた「このままでは国家財政は破綻する」を読んだ。矢野さんは、かつてよく飲みながら議論をした相手だ。酔っぱらってくると、議論しながら途中で寝てしまうこともあったような。

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 書かれていることは、典型的な財務省の論理なので、あえて紹介しない。今飲みながら議論すれば、突っ込みどころは満載だ。「このままでは国家財政は破綻する」「このままでは日本は沈没する」と、いつも財務官僚はセンセーショナルに宣伝したがるが、まず「国家財政の破綻」とは、何を意味するのか、どのような状態なのかを、明確にすることが必要だ。

 管見では、古今東西財政が破綻して消滅した国家はない。ましてや外国からの借金ではなく、内国債が積みあがっての「破綻」とは、いったいどのようなことを意味するのか。財務省の沈没は、日本の沈没ではない。

 財政学では、イロハのイで、財政の機能として①政府の予算措置などを通じた資源配分機能、②税制などによる所得再配分機能、③公共投資などを通じた経済の安定化機能の3つがあると学ぶ。矢野氏は「財政をあずかり国庫の管理を任された立場」にああるとしているが、それは財政の機能としての①を実行しているのに過ぎない。

 ②や③の機能は、政治による民意を受けた判断が必要であるが、「一介の役人に過ぎません」という矢野氏は、「国民は本当にバラマキを求めているのでしょうか。日本人は決してそんなに愚かではないと私は思います」と言いながら、文中では政治家による決断が「最善」のものにならないという信念を強くにじませている。「政治家が財政を握れば、バラマキ合戦に終始して放漫財政になる」というのが、財務官僚の性だ。

 私は、財務官僚がそう思いたくなる気分も理解できなくはないが、日本のマクロ経済政策の最大の問題は、政治の機能不全によって財政の②や③の機能が発揮されるような大胆な意思決定がなされないことにあると考える。

 確かに財政への一定の規律は必要だ。それは「国庫の管理を任された」財務官僚が、忠実に職務をこなせばよい。これまで戦後自民党政権は、最期には大蔵・財務官僚が職務を忠実にこなすことを担保にして、その範囲内で支援団体や地元への利益還元を行い、権力を維持してきた。

 その一方で、その時々の経済情勢に合わせて、大胆に機動的に財政出動をしたり、税制や税率を変更したりをして、その結果について民意を問うということから逃げ続けてきた。米国では、サプライサイド経済学を理論的根拠として減税による税収増を図ったレーガン政権のように、二大政党制の下での大統領選挙自体が、最新の経済理論に基づく政策選択の機会となっている。

 日本は、そうした理論を政治の意志決定に使って、政策の有効性を実証し、その成果を国民に問うという政治システムが未熟なため、今話題のノーベル賞でも経済学賞だけ受賞者はいないのだ。今話題のMMT(現代貨幣理論)についても、一定の仮定を置けば理論上成り立つことは明らかだが、その仮定(たとえばインフレ率が一定範囲内で収まることなど)を日本社会がどう受け止めるかどうか、そのリスクとそれへの対応を政治が国民に問えば、やってみる価値がない訳ではない。

 問題の本質は、経済理論をその限界も含めて理解した上で、国民が選択すべき具体的な政策として提示し、勇気をもってマクロ経済政策を大胆に実行し、その結果について国民に問う政治機能が存在しないことだ。無能な政治家の背後で、東大法学部出身者が中心で四則演算の単式簿記の世界でしか経済を見られない者が多い財務省が、マクロ経済政策の権限を(本来は持っていないにもかかわらず)握っていることが、日本の長期にわたる経済の低迷の一つの大きな原因なのだ。

 だから、私は、これまで日本のマクロ経済政策の立案機能を根本的に変えるために橋本内閣の行政改革に携わり、これまでの自民党政治では機能しえない政治の仕組みを根幹から変えるために、非自民勢力の中で政治に挑戦を続けてきた。民主党への政権交代は、それを実現するための手段であるはずだったが、菅(かん)内閣以降政府に入った政治家たちは、そのような志は欠片ほどもなかった。

 今回の私の無所属での挑戦は、もう一度その初志を実現するためのやり直しの第一歩でもあるのだ。