福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

恩師

〇国会の戦場をしばし離れて水戸に戻り、恩師の葬儀に参列して弔辞を読んでまいりました。中学校2、3年生の時に担任してくれた寺門正人先生。私が人生で一番大きな影響を受けた先生です。一粒種の息子さんは、私の秘書も務めてくれました。

 ちょっと長いですが、私の弔辞をここに記して、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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 弔辞

 寺門先生、先生の訃報に接し、在りし日を偲びながら、ただただ悲しみに打ちひしがれております。

 私は、茨大附属中2年生と3年生の時に先生に担任していただきました。先生は、私が接した先生の中で一番私の人生に大きな影響を与えてくれた方でした。

 国語の授業では、朝日新聞の天声人語を要約する訓練をひたすら繰り返しました。この訓練で、一生の財産となる文章の読解力を身につけることができました。以後、どのような国語の試験でも圧倒的に自信を持って臨めるようになっただけでなく、洋の東西の哲学書や歴史書など書物の世界へと私をいざない、浅学ながら今に至る教養を身につけさせてくれました。

 今思い返してみれば、「それはなぜか」「書かれていることは本当か」と常に問いかける先生の授業は、単に教科書を教えるだけではなく、さまざまな物事が起こり情報が飛び交う現代の世の中で、自分の頭で考え、判断する真の「知の力」を身につけさせてくれるものでした。まさに、附属中の校歌にある「自主の名門」を体現するものだったのです。

 先生はその容貌から、若い頃「ボルネオ・トンボ」とあだ名がつけられていたようですが、『とんぼの世迷言』などと題した日々の雑感を、定期的にお送りいただきました。その中の「先生はえらい」というタイトルの文章では、「学びとは、考えられたことを学び取るのではなく、自ら学びたいことを学び取るのだ…学ぶものの学びの深さと広さに応じて「学びの質」が決まることとなり、その学んだ結果として「先生はえらい」ということになるのだから、「偉い先生」は生徒が勝手に作っていることになる」とおっしゃっています。先生の教育のプロとしての凄みを感じる言葉です。果たして私は、先生を「偉い先生」にするくらい深く広く学んできたことか。

 先生の教え子は、今や大井川知事をはじめ各界で活躍しております。先生の訃報を聞いて、「私も先生の影響を大きく受けた」という声がいっぱい私のところにも寄せられております。私は、20年前に地元に戻って選挙に出るとき、真っ先に先生のご自宅を訪れ、決意を報告しました。中学校を卒業した時に先生が通信簿に書いてくださった「輝く個性、豊かな才能、すばらしいものを存分に生かした中学校生活であったと思う・・・小さな自分になってしまわないように、自己の人間としての伸展もめざして生きて欲しい」という言葉に見合った成長をしたか、を先生に見届けていただきたかったのです。

 以後、当選している時も、落選した辛い時も、いつも飄々と多くを語ることなく、しかし温かくお励ましをいただきました。時には「今の世の中には我慢ならないから、俺が政治家になってやる」なんておっしゃる時もあって、恐らく先生の「作品」として、長いものに巻かれることなく、自民党の強い地盤で国政に挑戦を続ける私のことを、何かを託す思いで楽しみに見守っていただいていたのではないでしょうか。

 昨年10月末の衆議院選挙の時は、もう先生は病身にありましたが、山新渡里店前での街頭演説に1年生の時の担任の住谷先生と一緒にいらしていただきました。強い寒風が吹きすさぶ中立つ、やせ細ったお姿を拝見した時、瞼が熱くなる思いがいたしました。選挙後、ご自宅をお伺いしてももう長く会話をできるお体ではありませんでしたが、涙を浮かべた目でがっちりと握手をしていただいたお姿を見て、少しだけ最後のご恩返しをできたのではないか、と思っております。

 中学生の頃、先生から「自分は幼い頃満州から、栄養失調でお腹だけがポッコリ出たガリガリの状態で命からがら引き上げてきて、こうして教壇に立っているのは奇跡だ」というような話を聞いたことを覚えております。世俗的な欲のない先生は、人の命は有限で、はかないものという人生観がもしかしたらあったのかもしれません。でも、先生の教育によって、多くの教え子たちが影響を受け、各界で活躍をしています。命は有限でも、先生の精神は多くの人に宿ってあちこちで生き続けているのです。

 これからも天上から、先生の「作品」である私たちをお見守りください。こうしてお別れをしなければならないのはとても辛いものがありますが、私たちは先生の肉体的な命以上に大切なものを灯し続けてまいります。どうか安らかにお休みください。

令和四年四月二十七日

衆議院議員 福島 伸享