福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

筑西市戦没者追悼式

〇筑西市戦没者追悼式に出席し、下記のような追悼の辞を述べてまいりました。

 

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 筑西市戦没者追悼式が執り行われるにあたり、ここに追悼の意を表すとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。

 私は、浪人中の身にあった三年前、日本の南約三千キロにあるパラオ共和国ペリリュー島に政府の派遣団の一員として遺骨収集に行ってまいりました。ペリリュー島は、我が郷土の水戸歩兵第二連隊が中心にその守備に当たり、昭和19年の9月15日から11月27日にかけて世界の戦史に残る大激戦を繰り広げた地です。約4倍の人員の圧倒的な戦力を持つ米軍に甚大な被害を与えながらも、約一万一千名の日本兵のうち生存できたのはわずか34名。玉砕の悲愴な歴史を有しています。

 その中には、筑西市稲荷出身で、激戦の中敵の砲弾をかいくぐって逆上陸した飯田義榮少佐や、大隊長として最前線の陣営を守り、米軍上陸後二日目に全身に数十発の敵弾を受けて壮絶な戦死を遂げた、筑西市榎生出身の冨田保二少佐などがいました。

 戦後75年経ってもなお2,000柱以上のご遺骨が、道路からわずか数百メートル入ったジャングルの岩陰や、自然の洞窟を利用した壕、トーチカの中などに残っています。岩を取り除き、木の根を剥いで夢中になって掘り進めると、壮絶な死を遂げた当時の状況のままにご遺骨は出てまいります。

 あるものはトーチカの中で火炎放射器で焼け焦げた姿で、あるものは岩陰で艦砲射撃が直撃して上半身と下半身がバラバラになった状態で、あるものは貴重な水場に仲間のために水を汲みに来たところを狙撃されリヤカーとドラム缶の下敷きになって。その状況を思い浮かべるだけで、汗と涙が混ざって顔がぐしゃぐしゃになってしまいました。

 収容したご遺骨は、白いシートに包んで宿舎まで抱きかかえて帰りました。一柱十キロにも満たないものですが、なぜか人肌のような温かさを感じて愛おしくなってきます。「今までジャングルの中に75年も放ったらかしにして本当にごめんなさい。もうすぐ祖国に戻れますよ」と語りかけました。亡くなった兵士の多くが茨城県出身。必ずや地元のどこかにご遺族がいらっしゃいます。宿舎の安置所で、日の丸の下に茨城から持って行った地酒をお供えして、「お疲れさまでした」と声を掛けました。

 現在、私たちが享受している平和と繁栄は、こうした多くの郷土の同胞たちの尊い犠牲の上に成り立ち、今なお祖国への帰還を待っているご遺骨が多くあるという事実を忘れてはなりません。こうした国家民族の史実を風化させることなく、次の世代に語り継いでいくことは、今ここに生きている私たちに課せられた重要な使命であります。

 英霊の御霊の祖国発展への熱い思いを改めて深く心に刻み、恒久平和の実現と人類の繁栄に貢献していくことをここに固くお誓い申し上げ、併せて戦没者のご遺徳を偲び、心より追悼の誠を捧げるとともに、ご遺族の皆様方のご多幸をご祈念いたします。