福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

河野博文さんのお別れ会

〇東大ヨット部で私の現役時代の総監督、通産省の先輩で元資源エネルギー庁長官、日本セーリング連盟会長などを務めた河野博文さんのお別れ会。

 私は京大で哲学を学ぶつもりだったが現役の時に落ち、浪人してやむを得ず東大に入学した。東大のつまらない授業を受ける気にならなかった私は、大学では運動で日本一になるとの目標を立てた。その時「日本一にならないか」と声を掛けてきたのがヨット部。写真で私の右に写っている中学校の時の親友加藤幸太朗君と一緒に、入部することを決めた。

 新入生歓迎コンパで初めて河野総監督に会い、「俺はたった今まで、アメリカのUSTRの役人とさんざんやりあってここに来た。人生はすべて勝負だ。2番、3番は意味がない。1番になれ。そして将来国を背負え!」と強烈な言葉をいただいた。私はそれまで、安定した職業で権威ぶった官僚になるなどという選択肢は一番唾棄すべきもので、微塵も考えたことがなかった。でもこの言葉を聞いて、大学4年間でヨットで日本一になり、通産省に入って、それから世界と戦える男になろうと決意した。

 河野さんは、いつも格好よかったが、厳しかった。年間200日以上を合宿所と海の上で過ごし、私たちの代は東京6大学戦で優勝するなど、日本一を狙えるところまで実力をつけた。しかし、当時新しく建った横浜八景島の合宿所への移転を巡って、河野さんやOB会と対立。一番期待されていた私たちの代は、最後のインカレで不甲斐ない成績で終わった。私は残る個人戦に賭けたが、日本一になることはできず、全日本インカレ個人戦での準優勝で終わってしまった。

 卒業後は、河野さんの後を追って通産省に入省。1999年の東海村JCO事故の時は、私が茨城県出身であることを知っている河野さんが資源エネルギー庁長官で、同期の興科学技術庁原子力局長に「茨城県出身で体力だけはある後輩を送るから」と言って科技庁に出向させられ、2ヶ月間ほとんど家に帰らず原子力災害対策特別措置法を作る仕事をした。しかし、それ以外では河野さんとは、政策的な流派が違い、何とはなしに違う派閥のような感じで仕事上交わることは少なかった。

 私が最初に選挙に出た時、経済産業省内には野党で出る私の応援をしないようにお触れが回ったが、河野さんは私の政治資金パーティーにいらして激励の挨拶をしてくださった。集会の案内をすると、政府関係機関の要人にも関わらずいつも律儀にいらしていただき、控えめに見守ってくださった。

 河野さんと出会わなければ、私が官僚になることはなかっただろう。河野さんの言葉に奮い立ってヨットの日本一を目指し、あとわずかで届かなかった悔しさがあったからこそ、役所を辞めて野党から選挙に出るなどという無謀な挑戦をしたのだろう。河野さんと出会わなければ、今の私はない。

 みんなでヨット部歌「東の海」を肩を組んで歌いながら、もう戻ってはこない日々を思い返して、目頭が熱くなった。河野さんのご冥福を心からお祈りいたします。


「海の子」と 称へよその名
銅の膚「自然」の 韛に
吹き成なせる Old-Seaman の
床し魂矜らかにこそ
身に享けて海の若子が
群なせばたぎつ感激
杯を挙げてうたはむ