〇国土交通委員会での質疑後、新幹線に乗って、衆議院当選同期の岸本周平和歌山県知事の通夜に参列してきた。途中、春には珍しく富士山がくっきりと見えていた。元気に万博イベントに出た後つい昨日の急逝。未だに信じられない。葬儀場の遺影を前にして、落涙を禁じえなかった。
岸本さんは当選同期というより、私が通産省に入省した時すでに霞ヶ関のスター選手だった。大蔵省から通産省にも出向したことがあって、その仕事ぶりや政策センスは省内にも鳴り響いていた。私が初出馬した2003年前後には、霞ヶ関の各省のエース級が次々と民主党から政治の世界に挑戦した。経済産業省からは松井孝治さんや鈴木寛さんや後藤祐一さん、外務省からは緒方林太郎君、農水省からは篠原孝さん、そして財務省からは岸本周平さんや玉木雄一郎国民民主党代表や北神圭朗さん。
平成の政治改革で細川内閣が誕生して短期間で挫折し、橋本内閣での行政改革で中央省庁が再編され、いよいよ55年体制をぶっ壊して自民党に代わる新しい政治を作る時が来たと、勇んで霞ヶ関を飛び出したのだ。しかし、現実は甘くなかった。私も、岸本さんも、玉木さんも、緒方君も、北神さんも、後藤さんもみんな落選。2009年の初当選まで、泥水をすするような浪人生活を送った。岸本さんの落選中の人生を賭けた壮絶な活動の毎日は、伝説になっている。
2009年に晴れてみんなで初当選し民主党政権も誕生したが、私たちが思い描いていたような政権には全くならなかった。岸本さんは2012年の厳しい選挙で連続当選。私は落選。2014年に私が国会に戻ってからは、岸本さんとは一緒に活動をすることが多くなった。写真にもあるように、2016年の民進党初の代表選挙では、同期の玉木雄一郎さんが世に出るきっかけになった代表選挙を共に戦った。というより、初めは岸本さんが選対幹事長として代表選を仕切るはずだったのが夏に米国に長期に行ってしまい、事務局長の私がバトンを受けて推薦人集めや選対のとりまとめをする羽目になってしまった。写真をご覧になっていただいたら分かるように、私たちはいつも隣で一緒に戦っていた。
2012年以降、岸本さんも私も民主党には愛想が尽きていた。このままでは55年体制が歪な形で維持され続け、日本にはこのような政治を続けている余力はもう少ないと、焦る思いを共に持っていた。私たちは常に、民主党の枠組みを超えた政界再編を目指して行動していた。2021年に私が3期目の国会に戻ってほどなく、二人で国会近くの蕎麦屋で今後の政治のあり方について議論をした。
その時、岸本さんは私にこう言った。「自分にはもう人生の先が見えて来ていて、体力もあまりない。日本の政治の変革を待つ時間はない。和歌山に戻って知事になって、行政のトップとして政治人生を終えようと思う」と。私は無所属で当選して有志の会を結成して「さあこれから」という時だったので、岸本さんを引き留め「一緒に政界再編に向けて行動しよう」と呼びかけた。その時は有志の会ができたこともあって、岸本さんも乗り気になっていたが、結局知事選に出馬して国会を去っていった。
2ヶ月くらい前に議員会館でお目にかかった時、「いよいよ政界再編のチャンスが来たね。君が頑張るんだぞ」と柔らかい手で握手してくれた。まさか、それが最期の別れになるとは思わなかった。岸本さんは、単なる官僚上がりの頭でっかちの秀才ではない。幅広い教養をもつ真のリベラリストであり、何よりも懐が広く包み込み人間としての大きさがあった。そして、戦う時は時には狡賢く振舞ったり容赦をしない迫力も持っていた。この乱世にあって、日本を牽引する能力を持った稀有な人材であったはずだ。
この30年の日本の体たらくに危機感を持ち、その元凶である腐った55年体制の政治を変えるという志は共にしているつもりだ。私などまだまだ足元にも覚束ないが、あと少しの命をいただいている者として、墓前に「令和の政治改革」の実現を報告できるよう精進しなければならない。
岸本周平さんのご冥福を心からお祈りします。