福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

イスラエル初日

〇イスラエル初日。まず初めに案内されたのは、国立ホローコスト記念館「ヤド・ヴァシェム」。欧州でのユダヤ人迫害の歴史の中で、特に主にナチスドイツ以降の歴史が展示されている。1930年代にドイツで売られていた子供向けの抹殺ゲームや、ユダヤ人強制収容所に収容されていて殺害されたユダヤ人の靴の展示などを見ると胸が締め付けられる思いになる。イスラエルは国民皆兵で、18歳になって徴兵された若者の研修プログラムとして多くの兵士たちが見学に訪れていた。

 その後、ガザ地区近辺に向かうバスの中で、今回のツアーに同行してくれている在日本イスラエル大使館のアサフ・セゲヴ公使と意見交換。確かに、ヨーロッパにおけるユダヤ人に対する迫害とりわけナチス・ドイツの歴史は、言葉に言い尽くせないほど悲惨だ。なぜそうなったのかの根本原因について、公使は「我々の国がなかったからだ」と言う。それもそうなのだろう。だからといって、第二次世界大戦後2000年以上ユダヤ人が離れていたパレスチナの地にユダヤ人の国家を建設することについて、無条件で正当化されるものではないだろう。2023年10月7日のハマスによるテロの根源がここにある以上、問題解決がそう簡単ではないことについて、激論を交わした。私たちの訪問団は、イスラエル政府からの招待によるものだが、日本の超党派国会議員団として、説明されることを鵜呑みにすることなく、私たちなりの意見を述べあった。

 次に訪れたのは、その2023年10月7日のテロの大きな被害に遭ったキブツ(農村共同体)のナハル・オズ。ガザ市からわずか3㎞の地にあり、ガザからの侵入を防ぐ柵の向こうに今は荒廃の極みにあるガザ市の建物が望めた。人口約600人のこのキブツには約300人のハマスのテロリストが侵入し、65人が殺害され19人が拉致された。このうち帰ってこられたのは17人だった。このキブツは政治的には左派支持の集落で、住人のアビ・ジャイルさんが案内してくれた。キブツでは18才になると親から独立してキブツ内の質素なアパートメントに住むが、それが一番ガザに近いところにあったためそこの若者たちの多くが殺されたり拉致されたという。現場には生々しく銃痕が残り、殺された人の写真が飾られていた。みんな幸せそうな若い写真なのが、涙を誘う。私がジャイルさんに、「今後ガザ地区がどうなってほしいか」と聞いたところ、「自分たちはここでただ平和に暮らしたいだけ。ガザの人も平和に暮らしてくれればいい。望むのはただそれだけ」と答えた。

 次に訪れたのは、ガザからわずか700mの地にあった軍の監視基地。ここには、ハマスのテロリストたち250人が3回にわたって攻撃をかけ、53人が殺害され10人が拉致され、そのうちの7人が帰ってこられたという。普段は戦闘ではなく監視業務であったため、この基地の兵士の大部分は若い女性。亡くなった兵士のうち16名が18才から21才という。同僚が殺害されたと説明する3人の女性兵士たちも、美しく若い女性たち。街にいれば普通のオシャレな女性で、とても過酷な体験をしたとは想像できない。拉致された時の映像を見せてもらったが、ここに配属されているのはパレスチナ人とのコミュニケーション能力がある人たち。徴兵される前は、パレスチナ人との交流にNGOとして積極的に取り組んできた女性が、「英語がわかるか?私はガザに友達がいっぱいいる」と叫んでいるにも関わらず、連れて行かれているのを見ると、胸が締め付けられる。

 最後に訪れたのは、最大の被害者を出した「ノヴァ音楽祭」が開かれていた会場。たった5人の生存者のうちの一人の、マザルさんが当時の状況を生々しく話してくれた。マザルさんは親の代でのエチオピアからの移民。普段は、教育支援施設のスタッフをしていた。音楽祭の盛り上がっている時にテロの襲撃に遭い、頭の上に葉っぱなどを載せて茂みに隠れていたが、テロリストに見つかってしまい銃器で後頭部を殴打され、数時間気絶していた。しかし後頭部から大量の出血をしてうつぶせで倒れていたため、死んだと思われて放置された。その後、ハマスが放った火が迫ってきたため、捨てられていた車の後部座席に隠れ、2人の他の生存者と合流して生き延びることができた。「自分が生きているのは神様のおかげ。私たちは平和に暮らしたいだけなのに、私たちが一体何をしたというのか。何のために私たちは撃たれなければならないのか」と訴えた。

 この1日だけで、本当に得難い経験をさせていただいた。しかし、私が政治家である以上、同情するだけではいけない。イスラエル側の事情や主張と、パレスチナ側の事情と主張がそれぞれある。では、このような状況を見て、何を感じ、何をすべきと考えるか。それは、最終日まで見聞きした上で、まとめたいと思う。本日の報告は、これまで。