〇明日で東日本大震災から15年。波乱万丈の政治活動の中で少しずつ記憶が薄れて行っていますが、国会から戻って挨拶回りの途中の水戸下市で地震に遭い、その後与党の議員として復旧復興に奔走したことを思い出します。

先日は、福島県浜通りの被災地を訪問してきました。まずは、浪江町の請戸小学校に。5年前に中学生だった息子を連れてきたときは被災したそのままの状態で入れませんでしたが、「震災遺構」として中に入れるようになっていて、多くの方が訪れていました。校舎の中は、15年前のまま。黒板には字が書かれ、体育館には卒業証書授与式の看板が掛ったまま。2階の上まで津波が押し寄せ、金属製の金庫やロッカーがへしゃげているのを見ると、津波の破壊力のすさまじさを改めて実感いたします。

震災当日、校長先生の機転で田んぼの先にある太平山という丘に全生徒を誘導し、津波到達ギリギリまで教頭先生が残って学校に来る保護者たちへの対応を行って、全員の命を守りました。15年という年月の間、校舎脇のコンクリートの割れ目から生えてきた桜の木が2mほどにまで伸びていました。
校舎には、「電源立地促進対策交付金施設」という標識が張られているのを、ふと発見しました。定礎に平成10年2月とあるのを見て、思い出しました。私が資源エネルギー庁公益事業部開発課で原子力立地のための交付金の配分の仕事をやっていた時に付けた予算だったのです。東北電力浪江小高原発の立地に向けて、地域振興予算で学校を新築したいと浪江町の町長さんがしょっちゅう私のところに陳情にやってきて、私も浪江町役場まで何度か足を運んで交付金を配分したので、よく覚えていたのです。この30年あまりに起きたことと現状を見て、さまざまな思いが湧きおこってきて、目頭が熱くなりました。


復旧した請戸漁港からは、廃炉作業が進められている福島第一原発が見えます。もっと原発に近づこうと思いましたが、あちこちにまだ「帰還困難区域」の看板が立っていて行けません。一番近く見えるところから写真を撮っていると、警察から職務質問をされました。原発と道路の間には、中間貯蔵している除染土が黒いシートに覆われて積まれていました。

双葉駅の前にはイオンのスーパーが開店し、インターチェンジのそばには新しい住宅が立ち並んでいて、少しずつ再建が進んでいるのもわかります。でも、震災前の街並みから見れば、復興というにはまだまだの状況であるとも思われます。原子力災害によってこれだけ甚大な被災をした地域ですから、民主党政権当時は白紙から新しい街を、国が主導して国力を挙げて造ることになっていたはずです。落選前に東日本大震災復興特別委員会に所属してた私は、委員会で何度もつくば研究学園都市をモデルとした福島国際研究教育機構(F-REI)を核とした、最先端の科学技術を活用した街づくりをすべきことを訴えてきましたが、先日水戸一高の同窓会で会ったF-REIに関わってる方の話では、官僚的でとてもシャビーなものになっていると言います。
幅広い分野の知恵の結集と、与野党の枠組みを超えた政治の意思が必要なのです。関東大震災の後には、後藤新平が現在の東京の街並みの基となる都市建設を行い、東京は江戸から近代の街へと脱皮しました。今、日本の政治に後藤新平はいるのか。とても申し訳なくもどかしい思いでいっぱいです。