〇実りの秋。早速の新米をいただきました。新米を炊いて食べる時、天の恵みのありがたさを体いっぱいに感じます。その他に、クレソン、常陸牛カメノコ。みんな、農家が丹精を込めて育てた作品です。
地域を回ると、各地で米価下落を嘆く声をお聞きします。ある地域での概算金は、60kgで1等のコシヒカリが10,200円、ひとめぼれなどで8,000円。令和元年産のコメの生産費は、15,155円。このうち労働費は4,607円なので、今年はただ働きの上赤字です。飼料米の補助金でようやく収入が得られる惨状です。
似非経済学者や自称改革派は、農家の努力が足りないとか、構造改革が必要と言いますが、どうやっても経営は成り立ちません。私が社会に出た1995年の自主流通米の米価は、20,976円でした。四半世紀の間に価格が半分になる産業が、他にあるでしょうか?肥料や資材は、当然半分になっておりません。
他の工業製品は、高校で習うアダムスミスの「神の見えざる手」によって価格が決まるのではなく、実際には情報の非対称性などから生産側がある程度主導的に価格を決められます。一方、農産物は生き物を取り扱い、在庫に大きな制約があることなどから、生産者側に価格決定の力が著しく弱いという特徴があります。経済学とは別に農業経済学が存在する意義として、教科書が最初に記すことです。
それに加えて、水田農業はコメの収入に頼らずに生活している兼業農家の比率が他の農業より圧倒的に多くなっています。同じ製品を算出する中に、経済合理的に行動するプレーヤーとそうでないプレーヤーが混在する市場となっているのです。一番損をしているのは、水田農業で生きていかなければならない専業農家です。
こうした構造的な性質を踏まえた、根本的な水田農業政策の再構築が必要です。自称改革派経済学者や官僚たちが唱えるような、安易な「大規模化すればよい」「もっと競争させればよい」ということではないのです。「科学なき政策論」の犠牲になっているのが、水田農業であると言えるでしょう。水田農業が衰退したら、農村も衰退します。水田農業が衰退するということは、日本が日本でなくなるということを意味します。私が国会に戻って、何としてもやらなくてはならない仕事です。
自民党総裁選でも、自称「改革」競争になっていますが、俗耳に入りやすい「改革」が本当に国のため、国民のためになるものなのか、見極める必要があります。