〇福井県選挙区の斉木たけし候補の応援中に銃撃の報を聞きその身を案じていたが、地元に戻る途中で逝去を知った。私は日頃から「殺される価値のある政治家になりたい」と言ってきたが、元首相への銃撃という事実に言葉も出ないほどの衝撃を受けている。
私は、安倍元首相に2017年2月17日の衆議院予算委員会で森友学園問題の追及を初めて行って、「私や妻が関わっていたら総理も国会議員も辞める」という答弁を引き出したことが世に知られており、何度も国会で対決してきたが、実は繋がりはもっと前からあった。
2001年に小泉内閣が誕生し、安倍氏が官房副長官として権力の表舞台にデビューした頃、安倍晋太郎時代からの古参秘書から経済産業省に「官房副長官の秘書官が財務省と厚生労働省から出ているが、これでは経済政策が身につかない。経済産業省から秘書官を出してくれないか」という要請があり、当時大臣官房で政治周りを担当していた私に白羽の矢が立った。まだ若かった安倍氏とこの時初めて面談し、おそらくは気に入ってもらって官房副長官室に入ることになったのだが、財務省から妨害が入ってそのポストに就くことはできず、同じ内閣官房の構造改革特区推進室に横滑りすることとなった。安倍氏からは、平身低頭で「申し訳ない」という電話をいただいた。
その後も、気にかけていただき、私が衆院選に民主党から挑戦して落選した時には、民主党のどの先輩議員よりも早く「残念だったね。また頑張ろうね」などと励ましの電話をいただいた。民主党政権時代には、寄り添う人も少なく失意の中にいた安倍氏と経済政策などの勉強会を開いたりなどした。
2012年に総理に復帰し、私が国会に戻った2014年頃の権力絶頂期以降の安倍政権には、構造的な問題も多くあったものと思う。私は、安倍氏を多少知る者として諫言の思いもあって、追及をした。私の質疑の動画や議事録をご覧になっていただければ、そのニュアンスはおわかりいただけるだろう。厳しい質疑の後、トイレで一緒になるとポンと背中を叩かれ、「今日の質問はなかなか厳しかったね」などと笑顔を見せられると、つい追及の手を緩めたくなってしまった。いろいろと言われていたが、人間としての安倍氏は優しく思いやりのある方だった。支えたいと思わせる、人間力のある方だった。
今日は、いろいろなことが思い出され、うまく気持ちをまとめることができない。心からご冥福をお祈りいたします。