福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

今日の本会議で、有志の会は平成30年度・令和元年度決算案以外の案件すべてに賛成いたしました

〇今日の本会議で、有志の会は平成30年度・令和元年度決算案以外の案件すべてに賛成いたしました。決算案に反対したにもかかわらず、鈴木財務大臣たちが会派控室にお礼にいらしたくださったので、みんなでパチリ。私は身長173cmで平均的だと思うのですが、大臣以外の皆さんは大きいですね。

 懸案のLGBT理解増進法案について、自公を含む超党派議連でとりまとめた立民・共産・社民から提出された法案と、自民・公明案をベースに維新・国民案を基に修正された法案の二案が並行して採決に掛けられました。有志の会は、実質的に大きな法的差異のない両案にともに賛成しましたが、私は両案とも採決に加わりませんでした(棄権)。

 そもそも人権に関わる法案については、いたずらに対決法案にすべきではなく、国会の場で可能な限り幅広い合意を得るための努力をすべきです。政治の場での価値対立が、LGBTへの理解の増進どころか新たな分断と差別を生む可能性があるのです。超党派議連の案では「性自認」、自公案では「性同一性」、維新・国民案では「ジェンダー・アイデンティティ」となっていますが、どの言葉を使っても法案における定義は「自己の属する性別についての認識に関するその同一性の有無又は程度に係る認識をいうこと」と同一ですから、法律論上どの言葉を使うのかは大した意味はありません。合意できないはずがないのです。

 これまで国際条約の担保法などを作る際には、英語を極力日本語にする努力をしてきたのが、国の独立を尊ぶ政府や政治家の気概でした。英語のままでは、その言葉が示す概念は日本人のものにはならないのです。私がかつて生物多様性条約カルタヘナ議定書の国会承認を得る作業をしていた時には、"risk analysis" という言葉をどう訳すか侃々諤々の議論が内閣法制局で繰り広げられ、結局「危険性評価」となりました。リスクというカタカナでは日本語として受容したことにならず、本当は既存の日本語の危険性でも安全性でもないのですが、相当な議論をして何とか訳語を充てたのです。今回、保守を自認する政党たちが「ジェンダー・アイデンティティ」という英語を法律に使うこと自体に、政治家や政党に独立の気概がなくなっていると言わざるを得ないでしょう。

 自民党内の反対派の「トイレがどうのお風呂がどうの」という議論にも、情けない思いでいっぱいです。私は、与党も入った超党派議連がまとめた法案は、毒にも薬にもならない当たり前のことを規定するだけの法案であると考えます。それでも、イデオロギー的に対立がある中で、こうした当たり前の法案を国会で全会一致でまとめることにこそ、意義があるのだと考えます。条文をベースとしない、特定の思想に基づいた「反対のための反対」の情けない議論がまかり通ることは、政権与党の劣化の極みと言わざるを得ません。まあ、あれだけ党内で反対していた議員も、採決では起立していましたから、大した理念も信念もないのでしょうが。本来、立法府が取り組まなければならないことは、このような毒にも薬にもならない法案だけではなく、性的マイノリティの方も含むすべての国民が憲法第13条に基づく幸福追求権を実現するための個別法のあり方でしょう。

 この会期末、解散風が吹く中で、必ずしも政権与党のプラスとはならないこのような法案の採決を急ぐ背景には、米国のエマニュエル駐日大使の意向もあるやに囁かれています。事実関係は分かりません。ただ、G7広島サミットの前後から、日本人の価値観が問われる微妙なLGBT問題に何度もツイッターなどで言及する大使の姿は、異常な越権行為であると言わざるを得ません。そうであればこそ、この国会で内閣委員会でわずか2時間半だけの審議で対立構図のまま採決するのではなく、日本人の価値観に基づく熟議を行うのが、本来の国会の姿ではないかと思うのです。

 今回の会期末でのLGBT理解増進法案での審議のあり方にこそ、日本の立法府の劣化が明確に露わになりました。私は、このような国会審議のあり方そのものに対する異議を申し立てる意味で、採決を棄権したのです。情けない国会で、申し訳ございません。

 

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有志の会、緒方林太郎君の内閣委員会での討論

【討論】
 採決に際し、討論いたします。

 今回、私は立憲・共産案、修正案、修正案を除く自民・公明案とも賛成いたします。極めてイレギュラーな事はよく承知しています。ただ、性同一性、性自認、ジェンダー・アイデンティティーのいずれの用語も定義規定に変更がない以上、意味は変わりません。それを持って来て「どれかを選べ」と言われる方が途方に暮れる事になります。

 このような形で、ほぼ同じ内容のものが3つも並ぶというのは、ただただ政党間の調整不足でしかありません。そもそもこれは人権、ひいては人の内心の奥深い所に関する法律です。それが国会で対立法案のように扱われる事自体が不適切であり、この審議を見ておられるすべての関係者に失礼です。今、眼前に居られる各法案の提案者には、健全な議会のあり方について猛省を促したいと思います。

 このLGBTに関する法律は、「騒ぎ立て、対象者の方を際立たせる」事が目的ではありません。誰もがその性自認を相互に気にする事なく、自由で静かに暮らせる世の中を志向しています。新藤先生が当会派に説明に来られた際、「カミング・アウトなんて事が必要ない社会」という事を言われました。当にその通りだと思います。

 一方、この法律の作成過程において議論が嚙み合わなかった原因として、私は「差別」と「合理的な区別」の違いが明確にならなかった事があると思っています。差別は常に不当なものであり、絶対に許されてはならず、あってはなりません。一方、私が質疑で女性刑務所の事例を挙げながら指摘した、公権力行使における最小限の合理的な区別を設けないとおかしな事になるのも事実です。私が色々な方と話をしてみて、左派・右派問わずイデオロギー色の強い方程、この「合理的な区別」という言葉に強く反応し、逆に当事者又は当事者に近い方程、「当然、そのような区別はありますよね」という返事が来ました。この違いを明確にする事なく、イデオロギーを前面に出して議論を進めた事がこのような混乱に繋がったのだと思います。この「合理的な区別」は、法成立後に基本計画レベルで是非取り組んでいただきたいです。

 すべて賛成というのは、「小異を捨てて大同につく」という事です。どの法律案も大差ないわけですから、いずれの案でも良いので法というツールを通じてLGBTに対する理解が進めばいいのだと思っています。そして、将来的にはこのような法律が存在しなくても全く問題ないような世の中が来る事を願って、私の討論といたします。
【終】