〇国の屋台骨を支える仕事を志望する学生が減ることは、国家にとっての危機的なことと見ることもできる。おそらく「公務員の働き方改革」なる議論や、国会対応の議論などが出てくるのだろうが、それは本質的な問題をとらえていない。むしろ、私は別の観点からこの問題を前向きにとらえたい。
霞ヶ関は、実は政策立案能力があるようで、実際には大した政策立案能力はない。アベノマスクの事例を見れば、ご理解いただけるだろう。私がいた経済産業省は、「経済」という名前を冠しながら、基礎的な経済理論すら理解している人材はそれほど多くいなかった。ましてや最先端の経済理論を追っている者など、希少だった。私は入省した直後に調査統計部に配属されたが、統計データが政策立案に生かされるようなこともほとんどなかった。
日本のキャリア官僚は理論やデータに基づいて政策立案をすることを仕事としておらず、仕事の中心は政府に入った政治家のお守りや、国会の舞台回しの仕事や業界など関係者との調整、間違いのない完璧な文書や法令の作成であった。仕事の多くの部分は、本来政治家や政党がやるべき仕事の代替である。そこで必要とされる能力は、知的専門性より、仕事の段取りの良さやプレゼンテーション能力、根回しの機転、「詰め」と称される細やかさなどである。その典型が、安倍政権で権勢をふるった今井補佐官だ。
こうした人材を育てるためには、大学を出て役所入ってからは若いうちにひたすら馬車馬のようにはたらかせ、上司から厳しい文書の正確性の「詰め」を受け、政治家や民間と清濁併せ呑んで付き合う訓練を積み重ねることになる。そうして育った人材は、専門性を持たない、他の世界では通用しないキャリアしか持たない者となる。役所に入ってからは、知的な蓄積を積み重ねたり、専門性を深める余裕はない。
このような理論的政策立案能力に欠ける日本の官僚組織こそが、平成以降グローバル化が進む中で、世界的な政策立案競争に日本が太刀打ちできず、日本の停滞と国際的地位の転落が始まった根幹的な要因であった。「日本版○○」という政策が乱立することこそ、その証左だ。明治以降、日本の「エリート」は横文字を縦文字にすることで成り立ってきたのだ。
私が付き合ってきた世界の官僚たちは、大学を卒業して学士として官庁で馬車馬のように働いてきたような人材は少ない。20代の時は外国で勉強したり、大学に戻って複数の修士やPhDを取得したり、弁護士や会計士のような専門性を身に着けたり、NGOなど他の世界で経験を積んだりしながら、ハンドルの「遊び」のようなものをもってキャリアを積み重ねている人が多い。
もう既に東大を出て、国家公務員試験を受けて、そのまま退職まで同期と出世競争をしながら霞が関で働くような人材が国家を支えるシステムそのものが、限界なのである。どんなに「働き方改革」をしたとしても、霞ヶ関の機能は回復されるものではない。そもそも、霞ヶ関だけが政策立案を行う統治システムこそが、日本の統治機構が抱える重大な欠陥なのだろう。シンクタンクや大学などさまざまな機関が、政策立案を競い合い、与野党の政治がそれを取り入れ実現してくようなシステムが必要だ。
一国の宰相が外国にまで行って、一民間企業にワクチンの供給を交渉しなければならないくらい惨めな国に堕ちてしまった今こそ、霞ヶ関が政策立案を独占してきた明治以来のこの国の統治システムを根本から変えていくきっかけにしなければならない。本来はそうしたことを野党にある政党が掲げ、政権交代を通じて実現をしていかなければならないのだ。もどかしい限りだ。