福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

文系?理系?

〇昨日の読売新聞。隠岐さや香名古屋大教授のインタビューの全面記事、『「文系」「理系」こだわる日本人』。

【分化された一そろいの学問を、日本は明治時代に丸ごと取り入れた経緯があります。西洋と違うのは、日本の教育制度を作る時に急いで人材を育てる必要があったことです。明治時代は、土木エンジニアや法律の専門家などを即席で育てようという雰囲気が強く、分野ごとの教育を奨励するところがありました】

【日本の教育システムは、文系か理系かを選んだらその後も変えられない、やり直しがきかない、というのが独特なんだと思います。面白いことに、文理融合型の課題を与えて解決策を求めると、外国の留学生はあまり悩まずにやるのに、日本人の学生は文系だ理系だとこだわる人が多いらしいです。文系、理系がアイデンティティーになってしまっているのです】

 私も、日本の文系・理系と分けて学ぶシステムに意味がないと考えている。私は、数学と国語(つまり論理の体系)が得意だったので、文系だろうが理系だろうがどちらでもよかった。父親が理系でうだつの上がらない人生を送っていたので、その反発で文学部で哲学を学ぼうと思っていた。

 10代の頃は、法学、経済学、工学のような実学は学問と認めていなかったので、東大文科三類、京大文学部、東京理科大理学部などを受験した。京大に落ちて仕方なく東大に入学したが、あまりにも授業がつまらなく、魅力的な先生もいなかったので、理系に転部して農学部に進んだ。実際には4年間海の上でヨットに明け暮れただけで留年し、その後文系の経済職で公務員試験を受験した。数学が得意な者にとっては、公務員試験の経済学は大して難しくなかった。

【学ぶべき内容が増え、世界では高学歴化が進んでいます。大学では幅広く学び、さらに学びたい人は、大学院に進学して、その時点で専門分野を決めればいい。日本でも、そうしたレイト・スペシャリゼーション(遅い専門化)が、もっと一般的になってもいいのではないかと思っています】

 最近のコロナウイルス対策での迷走や東日本大震災での危機管理の失態、カーボンニュートラルがブームとなっている薄っぺらいエネルギー政策など、日本の限界は明治以来のキャッチアップ型後進国特有の付け焼刃的教育によるものが大きいと考える。

 日本のエリートとされる東大を出て霞ヶ関に来る官僚たちは、中途半端な専門性しか持たず、文学や哲学などの幅広い教養に乏しい者も多い。私が出ていた国際会議では、どこでも「東大農学士」などというのは最低学歴だ。2つくらいの修士号とPhDを持っている人は、途上国でも当たり前だ。偏差値的な学歴などは、何ら意味を持たない。

 アカデミズムにいる「専門家」もタコツボ的な専門性しか持たず、現実の社会で直面する学際的・分野横断的な事象に対して、知的な貢献ができない者が多い。そうした官僚や専門家を使うべき政治家がどうかについては、申すまでもない。

 今や日本が世界の先進国の地位から転落しかかり、お隣の中国にも圧倒されそうになっている中で、明治以来の教育システムや社会における「知」の位置づけについて、一からやり直す必要があるのだろう。第二次世界大戦の日本の敗戦を伝えるアメリカのニュース映画のタイトルが、『科学なき者の最期』であったことをまた思い出した。

 しかし、これはあまりにも重い課題だ。

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