福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

国葬とは何か

〇安倍元首相の国葬については、ことの性格上あまり論評したくはなかった。私の所属する「有志の会」としては、国葬に反対の立場ではない。かつて安倍元首相に多少なりともお世話になった私自身も、どのような形式の葬儀であれ、心からの哀悼の意を示すべく参列するつもりである。

 輿論が熟する前に、おそらくは何らかの政治的な思惑があって珍しく岸田首相が政治決断した結果、現在のような無惨な状況になってしまったことに、安倍元首相が可哀そうでならない。もっと静かに粛々と故人を見送ることができなかったのか。その責任の多くは、政治的に拙い決定をした岸田首相にある。

 安倍元首相の国葬をめぐっては、いろいろな立場からいろいろな論評が行われているが、「国葬とは何か」という本質が論じられていることは、稀だ。専門家は「国葬とは国が主催して国費で営む葬儀を指す」としているが、そんな形式的なことが問題なのではない。法的根拠云々の議論も、本質ではない。「国」とはいったい何であり、その「国」に対するどのような貢献があれば、「国」としてその死を悼むべきなのか、という問題なのだ。

 内閣総理大臣という地位は、憲法上国を代表する立場ではない。国権の最高機関は国会であり、その長は衆参両院の議長だ。内閣総理大臣は、行政権を預かる内閣の代表に過ぎず、最高裁判所長官と並んで天皇から任命される存在だ。諸説はあるが、国を代表する立場はやはり天皇であり、内閣総理大臣は役割を与えられた「臣」にすぎない。任期が長いから与えるというのであれば、最高裁判所長官や衆参の国会議長を長く務めた者も国葬にしなければならないが、我が国にはそのような事例はない。

 「国葬」というからには、本来天皇に準ずる役割を果たした者に対して行われるべきものではないのか。それは、何か。たとえば、国の独立を果たした人物である。吉田茂は、それに値する人物であったということになるのだろう。あるいは他国の侵略から国を守ったり、この国の根幹的な価値体系(国体)が揺るぐのを防いだ人物もそれに相当するだろう。少なくとも、我が国の領土の少しでも回復した実績があれば、辛うじて国葬の検討対象にはなるかもしれないが、沖縄復帰を成し遂げた安倍元首相の大叔父の佐藤栄作は、国葬とはなっていない。安倍元首相の在任中に、北方領土は石ころ一つ返ってきたわけではない。

 藤田東湖の『正気の歌』には、日本の歴史における「正気」として、大化の改新を実行して蘇我氏を排除した中臣鎌足や怪僧道鏡を排除した和気清麻呂、元寇から日本を守った北条時宗、建武の新政の後醍醐天皇を守るために討ち死にした楠木正成などを挙げている。こうした人物たちに並ぶ役割を果たした者こそ、「国葬」にふさわしいのではないか。我が国は、そのような長い歴史と正気を持った「国」なのだ。

 「保守」を気取る夕刊フジは、

www.zakzak.co.jp

【岸田文雄首相が国葬を閣議決定したのは、民主主義の原点である選挙演説中に撃たれて亡くなったことと、安倍氏の業績が国際的に評価され、世界中から弔問の希望が来ているから】

としている。世界からお客さんが来るから「国葬」とは。「国葬」は、世界への見世物ではない。「保守」を自称する人たちが、国葬にすべきという理由は、あまりにも薄っぺらく、安っぽすぎる。「国」とは、そんな軽いものではない。「国葬」を挙げるのであれば、日本という「国」はいかなる価値を大事にする「国」なのか、ということを世界に示す場でなければならない。安倍元首相が、本物の保守政治家であったとするなら、自らの在任中に成し遂げたことに照らして、「国葬」されるなどということは恥ずかしすぎて受けられなかったことだろう。

 安倍元首相の死後、こうした安っぽい、薄っぺらい言説ばかりが飛び交っていることこそ、日本という国が溶け始めている証拠であるということを重く受け止めなければならない。