〇ちょっと前に、昨年の参院選で参議院議員になられた猪瀬直樹さんが議員会館の事務所にわざわざお越しになり、新著『太陽の男 石原慎太郎伝』をいただいた。猪瀬さんとは、橋本政権の時からのお付き合いだ。地下から天井まで膨大な書籍が積みあがっている西麻布の仕事場にも、何度もお伺いした。その猪瀬さんが、副知事時代知事室で石原知事と直接話したエピソードを交えながら、三島由紀夫と石原慎太郎の対比をし、これまで見えなかった石原像を浮かび上がらせようとしている。
私は、石原とは直接のつながりはない。お仕えしていた鴻池先生が石原と近く、その秘書だった浜渦氏が東京都副知事だった関係で、カジノ構想など東京の特区制度活用のお手伝いをした程度だ。三島つながりで石原の小説は結構読んだが、マルキド・サドや『O嬢の物語』などを愛読していた私には、「道徳紊乱者」と自称するほどの面白さを感じず、極めて戦後的なニヒリズムばかりを感じて正直好きになれなかった。
私の両親ぐらいの世代には、石原兄弟はブルジョアの象徴としてのあこがれはあるのかもしれないが、ヨットは私の方が上手だろうし、バブル時代に青春を送った私には眩しさを感じることはなかった。政治家としての、石原慎太郎が保守政治家だと思ったことは一度もなく、政治家として一流とも評価していない。
こういうことばかり書くことになってしまうので、猪瀬さんの本のことを書こうかどうか迷っていたのだが、友人の石川智也さんが立派な書評をWeb論座で書かれたので、とても足下には及ばないが、私なりの感想を記しておきたい。
私は、猪瀬さんが三島を斬新な視点から描いた『ペルソナ ー 三島由紀夫伝』は大好きだ。本当によく三島を読み込んでいる。その三島と石原の対比を、三島のボクシングのスパーリングを直接見た石原の感想を猪瀬さんが知事室で聞いて、書き記している。
【都知事室の会話では、石原さんの三島由紀夫への不満が、ボクシングのストレートパンチの問題ではなく、根本的に相容れない価値観の相違であって、のちの方向性の分岐点があのスパーリングから明白になったということだった】
三島のボクシングもボディービルも「盾の会」も、意識によって作られたものであり、本当の身体性がないことへの石原の違和感は、小説観の違いにも表れる。【価値の暴力的紊乱者として(略)、人を刺す代わりに、私は人間の文明なるものを刺し殺したい】という石原の文章を紹介している。
そして、自民党から同時期に出馬を要請されていた(と石原が言う)三島と石原が、なぜ石原が参院選に出馬し、三島は市ヶ谷で腹を切ることになるのか。このことも、この価値観の違いによるものであることを、猪瀬さんは浮き彫りにする。そして、三島とは異なる、石原のエネルギーの源は「嫌悪」にあるとするのだ。
立候補を決意した石原は、以下のように書いている。
【私は公認候補の指名紹介のために生まれて初めて出席した自民党党大会なるものに、ある戦慄と激しい嫌悪を禁じ得なかった。それは、これほどまでに独善的で陳腐な、国民の心情を一度だに反映することのない、なれ合いの拍手喝采にみずからを飾った政党が、今まで政権を得て来、これからもまたそうしたみずからへ無意識なままに、政治を担当していこうといしていることへの反撥だった】
そして、猪瀬さんは、こうした【「嫌悪」が「形骸化した諸価値」を突き崩すエネルギーだ】という。
猪瀬さんが石原と最後に会った時、石原は帰り際に同じ言葉を三回繰り返したという。「猪瀬さん、日本を頼む」と。こうした、耳にまだ生々しく言葉が残っているだろう時に、政治家になった猪瀬さんがこの本を書いたことに留意しなければならない。
猪瀬さんは、
【日本人は元気がない。政治家の言葉が空疎で、役人の言葉は遠回しで、経営者の言葉にはオリジナリティが希薄になっている。石原慎太郎はずっと「価値紊乱」の人だった。言葉で波風を立てる人がいないのは淋しいことだ。いま日本が長い低迷の時代にあるのは「嫌悪」のエネルギーがすっかり沈殿して攪拌されていないからだと思う】
と書いている。その通りなのだろう。
ただ、作家になりたくてもその才能はなく、もがいてもがいて20年間政治の場に身に置く私にとって、作家の発する言葉と政治家の発する言葉は、全く違うものであると思う。「嫌悪」から発せられる言葉に、大衆が熱狂することがあるだろうか。
私は、地元を一軒一軒歩いて、それこそさまざまな人の「嫌悪」などから発せられる言葉を聞く。それが自分の体の中に沈殿していった時、演説の場に突然「演説の神様」が降りてきて、イタコのように言葉が出てくることがある。それを聞いて聴衆は心を動かされる。でも、私自身に「嫌悪」があれば、そのような言葉は出てこない。自分の肉体が借り物であると意識をし、あらゆるものを吸い込んだ時に、初めて人の心を動かす言葉が口から無意識に出てくる。
そして、国民は、その言葉そのものだけではなく、その言葉を発した政治家の行動や生き様を見ている。同じ言葉を吐いても、誰がその言葉を言うかで聴衆はまったく違う受け止め方をする。政治家の言葉は、「肉体言語」なのだ。確かに最近の政治家の言葉は空疎だ。「価値紊乱」こそ、今必要なことなのだろう。でも、大衆の渦の中で政治家としての言葉を探し続けている私にとって、政治家猪瀬直樹が書く言葉には今一つしっくりこなかったことも、また事実なのである。