福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

榎戸先生

10月13日に桜川市長選挙の投開票が行われ、新人の大塚候補が現職候補を破って初当選した。一番の争点は新中核病院の建設問題であったが、これまで政策論というより政治の主導権争いが繰り広げられてきた桜川市が一刻も早く冷静なまちづくりの議論ができる環境となることを期待したい。

 その桜川市長選挙と同日で行われた市議会議員補欠選挙(定数2)に、私の水戸一高時代の恩師である(同校の先輩でもある)榎戸和也先生が立候補をし、結果的に無投票で当選した。出陣式には地元の皆さん、地元の同級生、親戚の方々に加えて、水戸一高時代の同級生、教え子、教え子の親御さん、さらには榎戸先生の先生まで大勢集まっていただき、私も「こんな幸せな先生はなかなかいないですよ」と挨拶させていただいた。先生は今年の3月に定年で退職。その後、ネギ農家として人生の再出発をしていた。告示の3週間前に電話がかかってきて突然出馬の決意を聞いたときには驚いたが、教員として管理職を目指すことはせず、地域の秀才が集まる水戸一高で教鞭をとることに飽き足らず、その後ずっと定時制高校に自ら志願して勤めた反骨精神と、これまでの人生で得た豊富な社会経験を持った先生のような人が、政治の世界に入ってくることは嬉しかったし、こうした政治家が多く各地で生まれることが、日本の政治文化を成熟させることにつながるものと思っている。

 先生は、社会の先生として、ちょうど政治意識に目覚め始めた私たちに現代社会や世界史を教えてくれた。また私の所属していた山岳部の顧問として、毎週のように週末には県内各地の山での合宿にお付き合いをいただいた。時には水戸から水戸線で岩瀬に行って当時走っていた筑波鉄道に乗り換え、加波山筑波山に合宿に行くこともあったので、その乗り換えの途中の岩瀬の先生のご自宅にもお伺いしたりしたものだ。卒業後も年に1回は仲間で集まり飲み明かしており、私の生涯で忘れられぬ恩師の一人である。私が選挙に出ることになって、栃木町(現栃木市)長を務めていた私の高祖父の実家が先生のごく近い親戚の家ということがわかって、ますます不思議なご縁を感じたものだ。

 先生の授業は衝撃的なものであった。愛国少年だった私と何人かの悪ガキたちは、1年生の現代社会の授業でリベラルな考えを披露した先生に対して「そんな授業は受けていられない!」と反抗的態度を示した。教室の黒板の上には日章旗を掲げ、先生の考えには同調するつもりはないことを子供っぽく意思表示した。すると、先生はその1年間一切教科書は使わず、「日本国憲法は押し付けられた憲法なのか、どうか」とか「憲法に規定されている政教分離とはどういうことか」など、その日その日のテーマを決めて生徒たちと徹底討論をした。議論は山岳部の合宿での夜のテントの中でも、遅い時間まで延長戦が行われた。負けず嫌いの私は、先生に議論に勝つために、マルクス主義から近代経済学ギリシャ哲学から橘孝三郎農本主義、当時流行っていた構造主義まで、付け焼刃ながら本を読み漁り、夢中になって独学で知識を広げていった。ひとつの哲学や学説を知ると、その背景となった思想を知りたいと思うようになり、さらに書物を求めていく毎日を過ごすと、学校の他の教科の授業など馬鹿馬鹿しくてどうでもよくなってしまった。お陰で、学校の勉強をほとんどすることはなくなってしまい、教科書すら買わなくなってしまった。

 こうした高校生時代に得た教養がその後の自分の人生に大きな肥しとなったと思うし、その蓄積の中から自分の政治理念というものが形成されたという意味では、先生は政治家としての私の本当の恩師なのかもしれない。また、このような破天荒な授業を許容する水戸一高という学校は、全国にもそうそうない高校であろうし、何人もの生徒が口角泡を飛ばして天下国家を論じるなどという青春時代を今どき送れるのは水戸一高ぐらいなのかもしれない。そういえば、水戸一高から何人もの国会議員を排出しながら一人も自民党の国会議員が出ていないというのも、水戸っぽらしい反骨精神を養う校風のせいだろう。

 先生の地元の桜川市が所在する県西地域は、医療圏としての地域医療が崩壊しかかっている地域である。桜川市議会では、たったの1票差で新中核病院建設に向けて議案が否決され続けるということが続いてきた。これからは榎戸先生の1票が地域医療の将来を決定づける場面が来るかもしれない。先生の人生経験と持ち前の正義感が、合併後の派閥対立を繰り返してきた桜川市議会に新しい風をもたらすことを心から期待したい。

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