福島のぶゆきアーカイブ

これまでにWebで公開したものの記録です

リスクの概念と川内原発の再稼働

今朝の読売新聞1面には、川内原発の新規性基準適合を受けて「安全「世界最高レベル」田中委員長」との見出しが出ていた。
ところが田中委員長の発言を調べてみると、「残るリスクとは」という記者の問いに答えて「一般論として、人知で全部出尽くしているとは言えない。相当のことを考えてリスクの低減がなされている。ほぼ世界最高水準に近いと思っている」と答えているのみである。
 私がかつてある国際条約の国内法づくりに携わった時、横文字を極力日本語に代えさせたがる内閣法制局との議論で、この「リスク」という言葉の適切な翻訳ができなくて苦労した。科学的には「リスク」とは危険度の大きさとそれが起こる確率を掛け合わせたもので、「安全性」とも「危険性」とも違う。「危険が起こる可能性」といったものだ。一つの具体的な水準を示して、安全か危険かはそれぞれの人が判断しなさいというもので、日本人にはなじみにくい概念である。同じリスクであっても、言霊の国では「安全性」と言えばなんとなく安心し、「危険性」と言えば警戒してしまう。
 こうしたことを踏まえると、田中委員長は多少「東大話法」的話し方が鼻につくとはいえ、完全に科学的論理に基づいて答弁している。一方の読売新聞は「リスク」が低いということを「世界最高レベルの安全」と超訳しており、これでは国民をミスリードすることになるだろう。メディアの役割は、審査の根本概念となっている「リスク」という概念を適切に伝えることではないか。いまだに非科学的科学信仰を持ち続けているのがメディアなのかもしれない。
 田中委員長が何度も繰り返し言っているように、原子力規制委員会は科学的見地から基準の適合性を審査し、リスクを評価するにすぎない。そのリスクを受け入れるか入れないかを判断するのは、今の法制度では(民主プロセスによる国民の支持を受けた)政府であり、自治体である。決して安全性の「お墨付き」を与えたということではないのだ。安倍総理や経済界などの反応を見ていると、そこを大きく勘違いしているように思える。みんなが消極的権限争いの無責任な縦割り行政に陥り、責任回避を図ることがないように、誰がどのような役割と責任を有しているのかを(政治家が原子力規制委員会に判断や責任を丸投げしないように)はっきりと認識しなければならない。-----