福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

東海第二原発の再稼働をめぐる水戸地裁の判決

〇今回の東海第二原発の再稼働をめぐる水戸地裁の判決は、私のような脱原発論者じゃない者にとっても、極めて重要な判決だ。

 判決の要旨を読んでみると、

「第1から第4の防護レベル(筆者注:施設の耐震性、基準津波の策定、シビアアクシデント対策の有効性等)に係る事項については、その安全性に欠けるところは認められない」

としている。

 私は、科学的な審査の妥当性を司法の場で争うことは、あまり適切なことではないと考える。科学は科学者同士で科学の場で、法的問題は司法の場で争うべき問題なのだ。同日に広島高裁で出された伊方原発の運転差し止めを取り消した判決と同様、司法の場では法的判断に徹して科学的知見に関する判断に踏み込まない水戸地裁及び広島高裁の姿勢は、極めて真っ当である。

 一方、水戸地裁の判決要旨では、

「避難計画等の第5の防護レベルについては、本件発電所の原子力災害対策重点区域であるPAZおよびUPZ(おおむね半径30㌔)内の住民は94万人に及ぶところ、原子六災害対策指針が定める防護措置が実現可能な避難計画およびこれを実行し得る体制が整えられているというこにはほど遠い状態であり、防災体制は極めて不十分であるといわざるを得ず、PAZおよびUPZ内の住民である原告79名との関係において、その安全性に欠けるところあると認められ、人格権侵害の具体的危険があると判断した」

としている。

 私は、これも極めて妥当な判断であると考える。そもそも原子力規制・防災法制上、避難計画が満たすべき基準については何も定められていない。自治体任せになっているだけだ。何が実効性のある計画なのか、国はきちんと示していない。

 こうした制度の欠陥を補うため、2015年に当時の民主党は私がとりまとめ役となって、地方自治体が策定する地域防災計画を内閣総理大臣及び原子力規制委員会が同意しなければならないとする規定を設ける原子力災害対策特別措置法改正法案を国会に提出した。私は、これでもまだ不十分だと考えていたが、電力会社の関係者も含めて協議したうえで、地方自治体の防災計画に国が責任をもって関与する制度を作ろうとしたのだ。こうした制度に基づく国の関与があれば、今回の判決は違うものになったかもしれない。

 今回の判決に対して日本原電は早速控訴したようだが、二審でも苦戦は必至である。なぜなら、原発のサイトの安全性なら日本原電自身が対応可能で、しかも国が基準を示して審査も行うものであるのに対して、避難計画の策定には直接日本原電が関われるものでなく、しかも何が妥当なものなのか誰も客観的、科学的な判断を示していないからだ。原発自体の安全性を争って二審で逆転した、伊方原発のようにはいくまい。そもそも、94万人の住民を合理的な根拠をもって安全と判断できるような避難計画を作ることは、極めて困難なことだろう。

 今回の判決は、ある意味日本原電が立法府や行政府の不作為の被害者でもあることを明らかにしたものであるように思われる。原発再稼働論者は、惰性で現状の維持を続けているのみで、東日本大震災の経験を踏まえた新たな原子力安全対策にきちんと取り組んでいない。私が拙著『エネルギー政策は国家なり』で論じたように、安倍政権の7年8か月は原子力政策の再構築を棚上げしたことにより実質上「脱原発」を進めていたのだ。

 このまま何もしないでいれば、脱原発派が訴訟を起こすまでもなく、日本の原子力産業は時間の経過とともに死に絶えていくことであろう。日本はこれまで積み重ねてきた知的資産や技術的資産を無にすることにもなる。「意図せざる原発ゼロ」こそが、日本にとっての最悪の結果なのだ。今回の判決は、こうしたことに対する重大な警鐘と受け止めるべきだ。

 蛇足ながら、こうした観点から

「原子力発電所の再稼働は、国のエネルギー政策を左右する問題である。裁判所によって異なる判断が示されるたび、電力会社が翻弄ほんろうされる状況には、首をかしげざるを得ない」

という読売新聞の社説は「首をかしげざるを得ない」。

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エネルギー政策は国家なり

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