福島のぶゆきアーカイブ

これまでにWebで公開したものの記録です

水戸学を学ぶ

 学問の秋の週末のひと時、地元の常磐神社が定期的に開催している水戸学の勉強に参加してきた。今回の講師は安見隆雄先生。前回に引き続き『弘道館記』を会沢正志斎先生が口語の問答形式で解説した、『退食間話』を読む。

 「國體」を講じていた弘道館に、なぜ支那由来の孔子廟があるのか?私も日頃より疑問に思っていたことである。

神州の古へは、人民淳樸にして、自ずから神明の大道に合ひたれども、質より文に赴(おもむく)は天地の常なれば、・・・民、多岐に迷い易し。故に漢土にて教とする所の、忠・孝・仁・義等、様々な名に因り、孔子の盛徳を模範として、人倫を明にせらる」

 つまり、日本には太古には「正しい道」というものが誰かに教わらずとも自然にあったが、後世になるとそれが見失われがちになってしまったので、支那孔子の哲学を手掛かりとしてそれをもう一度見出すのだ、と言っている。ここで、安見先生は、補助線として水戸学の影響大きく受けた吉田松陰の『講孟箚記』の「経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おもね)らぬこと要なり」という一節を紹介してくださった。四書五経を読んでも、日本と支那では国柄が違うのだから孔子らをそのまま受け容れる必要はない、というのだ。

 水戸学のダイナミズムは、江戸幕府の林家の朱子学儒教の書物をそのまま解釈するだけの役に立たない訓詁学的になりがちだったり、朝鮮半島の李氏王朝が儒教的社会をそのまま受け容れることで停滞した腐敗社会を招いたものとは異なり、儒学を日本古来の「日本らしさ」を日本人が学ぶ手がかり=単なるテクストとして位置づけたことにある。海の外からやってきた様々な文化を、日本古来の文化に溶け込ませ、日本文化を補強していくという日本人の得意技を思想において実現したのだ。

 初代韓国統監の伊藤博文は、明治42年8月1日に韓国皇太子の李土艮のお供として水戸を訪れた際、次のように言ったという。

「水戸の学問は、今日から見ると鎖国攘夷のごとく見えるが、国民の耳目を開き、上下一致に出る根本たる勤王の発端は、水戸の学問、水戸の人物の嚮導する所。このため国家の盛衰を慮り、或いは文武の道を講究するごとく、関西九州の雄藩志士を興起せしめたのも水戸が率先して勤皇の議論を唱へたのが原因であると考へる」

 そのわずか2か月後の10月16日、伊藤博文ハルビン安重根に暗殺される。伊藤と密接な関わりがあったドイツからの「お雇い外国人」のベルツは、次のように記述している。

「韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。・・・公は韓国人の最も良き友であった。・・・当時、韓国の政治は、徹頭徹尾腐敗してゐた。公は・・・正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却つて幸福であることを悟らせようとした」

 伊藤博文の韓国統治に際しての哲学に、吉田松陰の教え、さらにその基となった水戸学があったに違いない。私たちは、もっともっと先哲から学ぶことが多くある。どこかの知事と、不埒な団体のおよそ日本人の「正気」からかけ離れた下卑た言い合いが報道される今日に、ますますその思いを強くする。

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