福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

憲法改正に関する私の考え

〇憲法記念日を過ぎてしまったが、外出自粛中のGWの読み物として、私の考えを以下に記す。【以下長文】

www.tokyo-np.co.jp

 私は、中学生の頃からの根っからの改憲論者で、憲法改正のために国政を志したと言っても過言ではない。2017年の新しい憲法を制定する推進大会でも、故中曽根康弘元首相や安倍首相と並んで、甚だ役不足ではあるが私は民進党を代表してその旨演説した(コメント欄参照)。

 しかし、それは今の日本国憲法が「GHQによる押しつけ憲法だから」などという安っぽい理由からではない。日本の伝統や文化、風土に基づく価値規範を、国民の意思の下に明文化するという作業をこの国がしない限り、まともな近代国家になりえないと考えるからだ。

 憲法論というと、9条をめぐる神学論争に陥りがちだが、私は憲法第9条が平和を守ってきたなどという偶像崇拝的な憲法論には、まったく与しない。自衛隊という軍隊をどのように制御して、時の政権の道具になることなく、無意味な戦争に巻き込まれないようにするのかを明文化することに法律上の意味があると考える。

 そうした意味で、ここで安倍総理の言う「創設以来、何十年にもわたり続く「自衛隊は違憲」というおかしな議論に終止符を打つためにも、自衛隊の存在を憲法上、明確に位置づけることが必要だ」という改憲議論は全くおかしい。

 憲法第9条第2項では「国の交戦権はこれを認めない」と書かれている。いくら自衛隊の存在を憲法上に位置付けても、交戦権のない軍隊のままで何の意味があるのか。「交戦権のない軍隊」という言葉自体が、論理上ありえないものだ。現に交戦を前提とした装備を持つ自衛隊が存在する以上、その交戦権の範囲を明確にするのが、9条改憲の基本的あり方なのではないか。

 私は、今の偶像崇拝の対象となっている9条を、まず戦後自衛隊が果たしてきた専守防衛、他国の戦争に巻き込まれない、武力に拠らない国際貢献といった役割について、明文化して実質的な条文にするところから始めるべきであると考える。それ以上の役割を自衛隊に担わせる必要があると考えるなら、きちんと憲法に規定する改憲の手続きに基づいて、国民投票を行って過半数の賛同を得たうえで改正すればよい。なお私は、戦後自衛隊が果たしてきた役割以上のものを自衛隊に背負わすことは、現時点での日本国民は慎重であると思う。

 今回のコロナ禍にかこつけて、「緊急事態対応」の必要性も訴えているが、これもまったくの筋違いである。日本は憲法の制約があって都市封鎖や強制力を持った営業停止命令ができないと思われているが、そんなことはない。

 憲法第13条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする」とされており、「公共の福祉」のために国民の自由を制限する立法は可能である。ただし、この「公共の福祉」が何であるかは、立法に際して厳密な審査が必要である。

 今回のコロナ禍においては、憲法の範囲内でどこまで強制力を持った措置が実行できるのか、立法行為を国会議員たちがサボっている又は逃げているだけである。自民の改憲四項目にあるように、「国会の機能が確保できない場合に行政が政令で立法機能を代行できるようにする」ことにすれば、アベノマスクのような頓珍漢なことをする無能な政府にすべての権限を丸投げすることになってしまう。それこそまさに国家にとっての緊急事態だ。

 この国にとって一番問題なのは、憲法のせいで緊急時対応が制約されていることではなく、緊急時の対応のための必要十分な法律をこの国の立法府は作ってこなかったことなのだ。これは憲法の問題ではない。JCO事故後に原子力災害対策特別措置法を作ったときに、私はこれにチャレンジしようとして内閣法制局とも議論したが、時間の制約で十分にできなかった。やる気になれば、できるのだ。

 安倍総理は「自民党は憲法改正を党是としてきた」としているが、自民党の綱領は「自主憲法の制定」ないしは「新憲法の制定」だったはずである。こんなショボい、法律論上は害悪の方が大きい「一部改正案」を改憲の目標とするのであれば、私は体を張ってでも反対する。こんな改憲案を、「お国のための憲法改正だ」と言って支持する人たちは、一体何のための憲法改正だと思っているのだろうか、理解できない。

 自民党以外から、立憲主義に基づく健全な改憲論議が行われることを期待するし、私も人生を賭けてそれに参画してまいるつもりである。