〇私の大学の卒業旅行は1995年、軍事独裁政権から民主化へ舵を切り始めたミャンマーへのものだった。というのも、叔父の親友の永野さん(故人)がミャンマーでカレン族の王族の末裔と結婚して手広く運送業を営んでおり、そのお宅を拠点に3週間各地をお供付きで4WDで回ったのだ。
当時のミャンマーは外交人の旅行者に門戸を開いたばかりで、空港から市内への公共交通もなく、本来は指定された場所に米ドルとリンクした外国人用の貨幣を使ってのみしか旅行できなかったのだが、私はロンジーを穿いてミャンマー人の恰好で現地人のふりをして各地を回った。外交人用の貨幣を闇両替で現地通貨に替えたら、ボストンバック満杯分の紙幣になった。
上座部仏教の国のミャンマーはお金を持っている人は施しをしなければならないということで、村々を車で通過するたびに窓から紙幣をバラ撒いた(100枚撒いても10円程度)。そんなことを経験することは、後にも先にもないだろう。永野さんは深田祐介の名著『最新東洋事情』に登場する方だが、そのタイトルは「日本人より日本を愛する国、ミャンマー」。みんな、信じられないくらい親日家だった。たぶん台湾以上だろう。
どの街に行っても、日本人が来たというと私のところに人だかりができた。ある町では70過ぎのお年寄りから、小学生の頃教わったという結構しっかりとした日本語で、「ナカムラ先生を知りませんか。名古屋の方なんですが」と声を掛けられた。日本人の先生に日本語で教わった恩を忘れられない、という。その人は、誰に頼まれたわけでもないのに、町のお寺にインパール作戦に従軍して倒れた日本兵のご遺骨を大量に集めて大切に保管してくださっていた。まだ日本政府による遺骨収集など行われていない時で、ヤンゴンに戻った後大使館にいる知人に報告をした。
そんなミャンマーの人だが、欧米では民主派の旗手とされているアウン・サン・スー・チー氏に対する評価は微妙だった。永野さんの家は、スー・チー氏が軟禁されている屋敷と同じ町内にあったのだが、近所の人はあまり良くは言っていなかった。独立の英雄である父親のアウン・サン将軍に対する人気は絶大だが、外国生活が長く、ミャンマー語より英語の方が流暢で英国人の夫を持つ西欧人的感覚のスー・チー氏には親しみを感じない、と言っている人が多かったのだ。
第二次世界大戦前はイギリスの過酷な統治に苦しみ、戦後は米国をはじめとする欧米諸国から冷たい扱いを受け続け、中国人・華僑への反発と警戒心も強いミャンマーでは、日本はただ一つの救いの綱だった。だから、欧米諸国が軍事政権に制裁を続けている間も、日本はミャンマーと特別な関係を築いてきたのだ。私のお供をしてくれた、完璧なブリティッシュ・イングリッシュを話すウー・ヤン・ペーさん(故人)は、何度も何度も「スー・チー氏が日本人と結婚していたらよかったのに」と私に言っていた。
私は、ミャンマーとの関係は、米国やヨーロッパ諸国に付き従う必要は必ずしもないと思う。確かに軍政は不健全であり、ミャンマーの民主化は多くのミャンマー人たちが長年望んできたものだ。しかし、国民性や国柄を顧みない欧米流の民主化を急速に進めるとさまざまな問題を起こし、むしろ民主化にブレーキがかかってしまうのは、最近のリビアやシリアなどでの「アラブの春」で実証済みだ。欧米に見捨てられたから、中国しか頼れる国がなくなるような状況は、ミャンマーにとっても望むところではないだろう。日本は、ミャンマー人のただ一つの頼れる国として、漸進的な民主化に寄り添っていくことが必要なのではないか。
私も、国会に戻れたら、ミャンマーの民主化に何か貢献できるような仕事をしたい。それが、必ず日本の国益にもなるはずだから。