福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

先輩からのメッセージ

〇各省には国会担当の専任の職員がいて、日常的に国会議員や委員会、各党の部会などを回っている。

 昨日、経済産業省の今国会提出法案の説明に来てくれた経済産業省国会担当参事官は、私が経済産業省を辞めて選挙に初挑戦した年に入省した後輩。経済産業省を志す学生たちに書いた私の文章を今でも覚えてくれていた。

 私は、そのようなものを書いたことをすっかり忘れていたが、今読んでみると政治に出る間近の瑞々しい思いが溢れている。自分の政治への原点を改めて思い返させてもらった。20年経った今でも通用する論考でもあるので、ぜひ読んでいただたきたい。

 

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改革しましょ

製造産業局生物化学産業課
福島 伸享(平成7年度入省)

 私が官庁訪問にきた学生たちに必ず聞く至極月並みな質問がある。
「こんなに官僚が批判されている中で、なぜあなたは公務員になるのですか?」

 大方の学生は、この問いに対して次のように答える。
「国民のための大きな仕事がしたいのです。」

 ここで私は大概、根っからのサドっ気から、「国民とは、あなたも含まれるのですか?」と少々意地の悪い質問を再びする。

 学生は、ちょっと考えた後に、「はい」と答えざるを得ない。

 その答えを待って私は、いい獲物が来たとばかりに、怪しく目を光らせて、「じゃあ、国民のひとりである君のためになるような政策って何?」と畳み掛けると、大体の場合は意味不明の抽象的な話か、どこかの新聞の論説で読んだような話か、なぜ経済産業省を志望したのかというあらかじめ準備してきたありきたりの話しか返ってこない。なぜ私が最初にこのようなことを問うかというと、かなり生意気な言い方になるが、この問いに対する答えが、役人というのが国民に支持されるか、少なくともマスコミには批判されながらも国民からそれなりの敬意を払われる存在になるのかどうか、ということの本質であり、また、この問いにどう答えるのかで、その人が本気で世の中を動かすことの出来る人かどうか、ということわかるからだ。

 日本の経済状況が悪いことは明らかであるし、このような仕事をしていると、新聞やテレビで知る以上に、実感として日本経済の低調ぶりというのを感じることがある。また、雪印の事件、相次ぐ幼児虐待、荒れる成人式など日本の社会全体のたがが緩み活力が失われていることを実感するような事件は、毎日のように報じられている。そこで、改革が必要だということになり、ここ10年ほどは「政治改革」、「行政改革」、「財政改革」、「教育改革」、「経済構造改革」・・・と改革の花盛りであるが、一体何が「改革」されたというのであろうか。この10年の間の「改革」のインフレーションは、国民の改革に対する期待を白けさせ、気づいてみれば改革の担い手となる政治も、行政も、財界も、そして「市民派」なるものも、「改革」される側として位置付けられ、ボロボロになってしまっている。 私はそこに、「改革」なるものにレッテルをはる皮相的な言葉遊びの悲惨な結末を感じ取る。その言葉遊びをしているのは、マスコミや一般の国民ではない。政治家、役人、財界人みなそうなのだ。

 たとえば、公共事業の見直しということを考えてみよう。「熊しか通らない道路」と揶揄される公共事業であっても、その公共事業で食べていっている「国民」がいる。その道路ができたお陰で、よろこぶ「国民」もいる。「改革派」のちょっとばかり賢しい人は、費用対効果などという理論を持ち出してこれを批判するが、実際に本当に喜んでいる「国民」がいる中で、このような理論で本当に国民は納得するのだろうか。もし自分が地方の土建屋の社長であったとしても、「こんな道路はいらない。」と言えるのか。逆に、その公共事業をやらなかったら、誰にどのような幸せがくるというのか。「改革」を叫ぶ人の言葉には「国民の幸せ」についてのリアリティがなく、幸せのリアリティは皮肉にもいわゆる「守旧派」の提供する公共事業やサービスにある。このことを肌で実感しているからこそ、「改革」は白けてしまっているのだ。

 経済産業省は、改革を推進する省であると評価してくれる人もいれば、そのように自認する人もいる。何せ、所掌事務には「経済構造改革の推進に関すること」ということが掲げられているくらいである。実際に省内には、爽やかに改革を語る切れ者はたくさんいる。また、訪問する学生の中にも改革への夢を語るものも多い。でも本当に私たちが、改革を実現することができるのであろうか。所詮私たちの多く、そして今これを読んでいる皆さんは、都会の純粋培養の中で育ってきた「お坊ちゃま」だし、ある意味で人生の成功者である。その人たちが「改革」を唱えた先に、本当に一般の国民がリアリティ(こころから納得できること)としての幸せを感じ取ることができるのか。それができなければ、単なる皮相的な言葉遊びをして、自らの「エリート性」を保つ免罪符として、「改革」を語っているにすぎないし、それを聞く一般の国民もそれを感じて白けてしまうだろう。

 これまで繰り返されてきた「改革」には、「日本版○○」と銘打ったものが多い。これらの政策は単なる事態への対処療法にすぎず、「この国をどうしていこう」という価値観が込められていない。その価値観とは、外国から持ってきた理論や理屈からは生まれてこない。自分の人生観に照らして、正しいと思うことから生まれるのが価値観であるし、自分の体験に照らしてそのような価値観を紡ぎ表現できる者しか、本当に行動をする者になれない。また、他の人もそのような価値観を表現する者にしか、共感をし支持しないであろうし、リアリティのある幸せを提供できる「守旧派」に対して、何ら対抗しえないであろう。この個人の価値観に基づく政策こそが、「国民の一人である自分のための政策」であり、改革へのエネルギー源でもあり、武器ともなるのである。

 「お坊ちゃま人生」から脱却して、自らの中にある価値観を研ぎ澄まし、霞ヶ関の異端児と言われようが、変人といわれようが、その価値観を表現し、行動するエネルギーがほとばしる人、一緒に改革しましょう。