〇ある本で不当に評価されている会沢正志斎を振り返りたくなって、先日逝去された安見先生の本を再読。所感は後日書き記すが、やはり卓越した偉大な「政治家」。
お墓参りをしたくなり、千波の本法寺跡にある墓地を参拝。ところが、墓地内には案内板もなく、青山延光が碑文を記し、第10代藩主慶篤公が揮毫した墓石「旌正之碑」は、鉄パイプで支えられて工事現場のような惨めな姿だった。
水戸の人は、ドラマの水戸黄門を持て囃しても、足元の歴史はあまり大事にしない。加倉井砂山が成沢の地に開き、天狗党リーダーの藤田小四郎や川崎財閥創始者の川崎八右衛門などが学んだ日新塾は、日本遺産に指定はされているものの、40年前に朽ち果てて今は更地になっている。
光圀公が愛し、斉昭公が水戸八景に選定した河和田の景勝地の膳棚帰魚は、人手が入らず荒れ果てた竹藪・篠藪に隠れ、川沿いの美しかったであろう棚田は耕作放棄地となり、池はゴミ捨て場のようになっている。
うちの近所の国指定文化財の吉田古墳は、石室に線形で装飾が施された全国的に貴重な古墳だが、看板は倒れ、色気のない金網に囲まれた空き地に過ぎず、これを見てもその価値に気付くことはないだろう。
通常国会の施政方針演説で、菅総理は「城や寺社、古民家での滞在など、地域に眠る観光資源を磨き上げ、滞在型観光やワーケーションを推進してまいります」と述べているが、古址旧跡はワーケーション(なんだこりゃ?)などの飾りではない。大日本史の編纂に当たって光圀公が掲げた「彰往考来」の精神とは、先達が積み重ねてきたものに日常から私たちがどのように接するのかということだ。
行政に頼るだけではなく、現代を生きる市民の力で、これらのものを守るための何らかのアクションを起こしてまいりたい。その時は、ぜひ皆さんもご協力を。