福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

炭田精造氏を偲ぶ会

〇週末に「炭田精造氏を偲ぶ会」に、地元日程の合間を縫って参加してきた。元㈶バイオインダストリー協会常務理事。ちょうど21世紀になったばかりの頃、私が経済産業省生物化学産業課(バイオ課)国際班長をやっている時に、大変お世話になった。

 炭田さんは、カリフォルニア大学で生化学博士を取得した国際派。風貌も、彫りの深い日本人離れしたロマンスグレーで、お会いするまでは英語のメールでやりとりをしていたので、Mr.Sumidaという名前のアジア系の外国人だと思っていた。

 1992年のリオデジャネイロ環境サミットで採択された気候変動枠組み条約と生物多様性条約(CBD)は「双子の条約」と言われていたが、日本では後者はあまり話題にならなかった。当時、CBDでは遺伝資源から医薬品や工業製品などを開発した場合の途上国への利益配分が大きな国際問題となっていた。微生物や菌などの有用な遺伝資源はアマゾンや東南アジアの熱帯雨林などの途上国に多く存在し、それまで先進国はそれらを活用してさまざまな製品を開発して莫大な独占的な利益を上げていたのだ。

 味噌や醤油を使う日本は伝統的に発酵技術が強く、生物資源由来の医薬品開発なども盛んであったが、途上国が経済的権利を主張するようになってからは、リスクを恐れて研究開発が停滞しつつあった。そこで、この分野の第一人者である炭田さんは、国際会議などで適切なルールメイキングをするために、孤軍奮闘することとなった。

 CBDは本来環境省が中心となって対応すべき分野であるが、この分野に環境省は関与しようとしていなかった。大きな影響を受ける農水省や文科省も関心を示さず、経産省バイオ課の初代国際班長である私が、英語が苦手にもかかわらず、毎月のように炭田さんと一緒にCBD締約国会議やWIPO(世界知的所有機関)に出ることになり、国際交渉に明け暮れた。

 欧米諸国は法的枠組みを作ることに反対し、途上国が生物資源の利益配分の拘束力ある国際ルールを作ることを主張する中で、私たち日本は二国間や多国間での自主的な取り組むを促す緩やかなルールを作ることを提案した。国連大学高等研究所長のA.H.ザクリ博士と昵懇の炭田さんは、インドネシア、タイ、マレーシアなどの途上国の政府担当者(皆、博士を持つ研究者)に根回しをし、私もそのお手伝いをした。

 風貌とは異なり、炭田さんは野武士のような方で、「日本発の国際ルールを作ることで、日本の産業界が世界のバイオ産業を引っ張るんだ」と張り切っていた。こうした炭田さんが中心となった日本の生物資源への対応は、『生物資源アクセス』という本に、当時の関係者が連著して記されている。私も、その執筆者の一人だ。

 2010年民主党政権の時に、名古屋議定書としてこうした交渉の結果が一つの果実となった。しかし、その表舞台に立っていたのは、松本環境大臣。私たちの仲間の中では、「日本は名古屋議定書という名を取って、実を捨てた」と言われていた。名古屋市のホテルで開催された議定書採択のレセプションには私も参加したが、ポツンと一人で立っている炭田さんの姿が印象的だった。

 あれから四半世紀経って、残念ながら日本の産業界は生物資源を生かした国際的なビジネスを活発にやっているわけではない。むしろ、この分野から撤退している企業の方が多い。それと共に、日本の産業競争力自体も停滞を続け、今やかつて途上国として技術協力をしていたインドネシアやタイ、マレーシアの方が元気になっている。政府でも、この分野に取り組むための政策資源は極めて乏しくなっている。

 落選から国会に戻って来て、もう一度炭田さんと盃を交わしながら憂国談義をやりたかったが、もうそれも叶わない。一つの専門的分野の話かもしれないが、民間人の立場ながら常に国益を考えて行動し続けた一人の侍がいたことを、ここに記しておきたい。