福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

新札発行から1ヶ月

〇新札発行から1ヶ月が経って、ようやく渋沢栄一が私の元にやってきて、またすぐに離れて行きました。

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 渋沢栄一財団のデジタル版『渋沢栄一伝記資料』では、渋沢栄一に関連する日々の動きがネットで検索できます。渋沢栄一の年代は私の高祖父の世代ですから、高祖父の名前を入れて検索をしてみると、その当時の先祖たちの活動の一端が見えてきます。

 まず、私の直系の高祖父の8代目「福島弥兵衛」で検索すると、5件がヒットします。最初に出てくるのが、明治12年(1879年)に東京でコレラが蔓延した時に、民間側から衛生対策に当たる者として商法会議所が選抜したメンバーに、渋沢栄一と並んで福島弥兵衛の名が見えます。明治16年(1983年)に東京商工会創立発会において会頭以下役員選挙が行われ、もちろん渋沢栄一が99点で会頭となり、高祖父福島弥兵衛は3点で落選しています。先祖代々選挙には弱かったようです。明治24年(1891年)には、深川区役所の敷地の購入費として渋沢栄一が200円を寄付し、福島弥兵衛が100円を寄付したと記録されています。当時、同じ町内に住んでいたのです。

 8代弥兵衛の婿養子として福島家に来た曽祖父の「福島繁三郎」で検索すると、渋沢栄一の晩年昭和3年(1928年)の米寿祝賀会の出席者にその名前を見出すことができます。若い頃渋沢が経営していた銀行の支店長だった曽祖父が福島家に婿入りしたのは、もしかしたら渋沢が関係していたのではないかと勝手に想像するのですが、それを知るであろう私の祖父母の世代はもうこの世にいません。

 曽祖父の実父望月磯平は、桜川市門毛の郷士の吉田家から望月家に婿入りし、今の栃木市で町長を務める傍ら電力会社やガス会社を興し、京北銀行を立ち上げましたが、大正5年(1916年)に日本の生命保険の祖である阿部泰蔵の功労祝賀会の発起人にその名前が見えます。私の知る限りの記録では見当たらないのですが、栃木で生命保険業もやっていたのでしょう。

 祖母の父方の祖父、江原芳平も7件がヒットします。明治35年(1902年)には、渋沢の日記に「渋沢喜作・江原芳平等栄一ニ三十九銀行ニ関シ依頼スル所アリ。栄一第一銀行頭取トシテ尽力ス」とあります。渋沢喜作は渋沢栄一の従兄ですが、高祖父が創業の一人となった第39国立銀行(群馬銀行の前身)について、渋沢栄一に一緒に相談に行ったようです。その後の日記で「第一銀行ニ抵リ重役会ヲ開ク、三十九銀行ヨリノ請求顛末ヲ披露ス、種々評議ノ末拒絶スヘキコトニ決ス」とありますので、陳情は実りませんでした。

 祖母の母方の祖父の初代吉澤兵左だけヒットしませんが、栃木の葛生で石灰鉱山を開いてやはり近代工業化に貢献した実業家でしたので、どこかで接点があったのではないかと思います。

 紙幣というのは、その国が大切にする価値を表しています。上の紙幣はロシアの2000ルーブル紙幣ですが、よく見ると日本の北方領土が記されています。混迷の時代の、日本の新紙幣。それがどのような時代を表すものになるのかは、私たちの行動にかかってくるでしょう。私にとって、渋沢栄一は「天下の回りもの」として通り過ぎていくだけでしょうが、先人や先祖の歩んできた道を偲びながら、明治の殖産興業に並ぶ日本経済の再生に尽くしたいと思います。