福島のぶゆきアーカイブ

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選挙制度の抜本的改革

 「一票の格差」をめぐる訴訟で広島高裁、広島高裁岡山支部で相次いで昨年の衆院選の選挙を違憲、無効とする判決が出た。一票の格差について「違憲」や「違憲状態」という判決はこれまでにも数多くあったが、選挙を「無効」とまで判断した判決は最高裁の確定判決ではないとはいえ衝撃的であり歴史的なものだ。当該選挙区で当選した議員は、「議員としての正当性がない」と判断されたわけであるから、判決が確定するまでの間は議員の座は居心地のよいものではないものと拝察する。読売新聞では「国会への司法の怒り」とか「格差是正を進めない国会に対する司法のいら立ち」などと相変わらずの情緒的な報道をしていたが、決して司法は感情に任せて今回の判決を出したのではあるまい。国会議員たちで議論する選挙制度改革は「まな板の上の鯉が包丁が握っている」とも言われるが、当事者である政治家がなかなか本質的な選挙制度改革を行わないことが民主制度の根幹を揺るがしかねない、という高度な司法的判断が今回の判決につながったのであろう。
 私は、選挙制度の問題は、単に「一票の格差」を是正するために選挙区を5増5減するといった小手先の見直しで解決する問題ではないと考える。ましてや今自民党が考えている、現行制度の比例の一部を小政党に配分するという露骨に目先の公明党対策を考えた見直し案は邪道であり、論外だ。選挙制度は、
1.その時の日本国民の民意を可能な限り反映する仕組みとなっているか、
2.政権を担いうる健全な政党を複数育てうるものになっているか、
3.今を生きる日本人のベスト・アンド・ブライテストとも言うべき確かな志と能力を持った政治家が、財産の有無や家柄といった外形上の差異と関係なく選択され、国を率いるリーダーとして育ちうる制度になっているか、
といった大きな視点から議論されるべき問題であると私は考える。そうした意味では、1996年の総選挙から始まった小選挙区比例代表並立制のあり方そのものを検証すべき時が来たのではないだろうか。
 現在の選挙制度は、20世紀末に自民党の長期政権の中でリクルート事件をはじめとする不祥事が相次ぎ、政権交代可能な選挙制度、同一党の候補者が同一選挙区で争うため金の力に任せた派閥抗争に陥りがちな金権政治の打破などを目指して導入されたものと理解している。確かに1998年に結党された民主党は、この制度をフルに活用して自民党に代わって政権を担いうる政党として自民党に対する批判を集約し、結党して21年後の2009年に国民の投票の力による政権交代をついに実現させた。また、私は中選挙区で戦ったことはないので実感はないが、かつての中選挙区時代に比べて選挙に要する費用は大きく減ったと言われ、サラリーマンの家庭に育ちほとんど財産も蓄えもない官僚出身の私のような者でも国政に進出することができるようになった、という意味では当初の目的はある程度果たしているのかもしれない。
 一方、政権交代をしたといってもアンチ自民の勢力を集めたに過ぎず、理念も基本政策もバラバラの政党が政権を担っても上手くいかないことは、3年3か月の民主党政権運営を通じて嫌というほど身に染みた。見果てなかった「政権交代」の美しい夢があまりにも無残なものとなってしまった限り、今後は「政権交代」を目的化して訴えるだけで、「何を実現するために政権を代えるのか」という具体的な理念や目標を示せない政党は国民には決して支持されないであろう。そうした意味では、現在の制度は政権交代という事象を実現するのに寄与したが、社会的理念を実現する手段としての政党の熟成ということには今のところ寄与することはできなかった。むしろ、2005年の小泉郵政選挙、2009年の政権交代選挙、そして昨年の民主党惨敗選挙と1回毎に極端な結果に振れすぎる現状では、政党は追い風を起こすために刺客騒ぎやワンイシューによるイメージ戦略などを繰り広げ、荒っぽい政党政治に陥ってしまっているのではないか。
 私は小選挙区制度のもっと大きな欠点は、上記3.の政治家の選抜、育成の観点からの問題であると考えている。ここ数回の選挙を見ても、比例単独で名義貸しのように名簿に掲載された人物が青天の霹靂で議席を獲得したり、〇〇チルドレンや△△ガールズと言われる人物が大量に発生するという現象を生んでいる。こうした選挙結果の下では、その時々の風が吹いている政党に所属さえすれば選挙に勝てるという政治家の行動原理を誘引し、あたかも受験戦争の延長のように政治家養成塾に通い、その時に流行りの政党の公募試験を受験し、自らの理念や信念ではなく所属する政党のマニフェストやキャッチフレーズを街頭や駅前で連呼するだけで国会議員になる人物が出現しては消えるということを繰り返してきた。私は、政治家の仕事は自らの信念や理念に基づく政策を、選挙において国民の信任を獲得した上で、その力を背景にして政府に乗り込んで実現していくのが役割だと考えるが、一方で単に国会議員という身分を得ることが目的の人物が多く国政に進出し、政治家が著しく小粒化してしまっているのではないかとも感じている。前回の私の対抗馬として公募に応じて維新から立候補したタレント的候補は、間もなく行われる東京都議選挙に出馬すると報道されているが、これなどその典型である。それなりに見栄えが良かったり、学歴が高かったり、英語が上手だったり、演説が爽やかだったり、一見有能な政治家が増えたように見えるが、かつてのように時代を背負い、郷土の誇りを担い、強烈な意志を持って国を動かそうとする、独特な「におい」を持った政治家が日本の政界からいなくなろうとしているのではないか。
私自身は強力な自民党地盤の選挙区で10年間歯を食いしばって地域を歩いて回り、一人ひとりと人間関係を築いていく政治活動を続けてきた。国会議員になるためには合理的な行動ではないかもしれないし、上手な世渡りをしていないのかもしれない。今回の選挙では勝利はかなわなかったが、「何党に所属している」とか組織の論理を超えて、人間として私を応援してくださる多くの支持者や仲間に恵まれている。「自分は幸せな政治家である」と落選をして浪人となった今こそ改めて実感している。決して負け惜しみではなく、自らの政治家としての成長には自分の選択は間違えていないのではないかと思っている。
 私は、国会議員というのは、何党の人物であるかという以前に、その人物が国会議員足りうる人物なのかという厳しい審判を国民から受けるべきであると考える。本来その人物を見極めて候補者を選定するのが政党の役割なのであろうが、そのような選定をする能力が政党にはないからこそ大学受験のような公募制度で候補者を選定しているのが現実である。「その人物が国会議員足りうるのか」という選抜は、候補者自らが地元に深く入り込み、自らの理念を多くの人にぶつけ、そうして作り上げていった人間関係の中から自ずと評価が積み重ねっていく過程でしか実現できないのではないか。私は、そのような選抜がなされる選挙制度は、一つの党から複数の候補者が立候補する「中選挙区制」にあると考える。ただし、かつてのような5人区ともなると、一つの政党から3人も4人もが立候補する場合があるため、かつてのような熾烈な派閥抗争を生んだり、その産物としての金権選挙に陥ったり、あるいはたった1人の候補者を当選させれば事足りる万年野党を生んでしまい、政権を担いうる健全な複数の政党が育たない可能性もある。こうしたことから、基本的に定数3人の中選挙区制とし、政権を担う意欲のある政党はそれぞれの選挙区で2人の候補者を擁立し、その候補者たちが党の看板だけに頼ることなく人物として有権者に訴え切磋琢磨する仕組みがいいと考える。私は、現職時代に「衆議院選挙制度の抜本的改革を目指す議員連盟」に所属し、中選挙制度への抜本改革に向けて超党派で活動してきた。この議連の会合で、かつて自民党が野党時代に自民党総裁として小選挙区比例代表制の導入を進めた河野洋平衆議院議長は「率直に不明をわびる気持ちだ。状況認識が正しくなかった」と陳謝し、「政治は劣化している。現職の皆さんの責任で一刻も早く選挙制度を変えてもらわなければならない。これは自分の政治家としての遺言のようなものだ」と訴えたことが強く記憶に残っている。この議連には野党時代の自民党議員も多く参加していたが、現行選挙制度で圧勝して与党となった今は議連で議論されていたようなことが表面に出てくることはなくなってしまった。現職の国会議員同士の議論や調整ではなかなかこのような本質的な選挙制度改革は実現しないのだ。東日本大震災後の原子力事故の中立的な調査会が国会に設置されたように、国会議員から一線を画した第三者機関を国会に設置して早急に結論を出すことが必要なのではないか。-----