さて、私が所属する水戸葵ライオンズクラブには茨城県護国神社の佐藤昭典宮司も所属されており、クラブ誌「あおい」でエッセーを連載されています。実は69年前の8月13日は、水戸を守るための特攻攻撃が茨城県のすぐ沖の鹿島灘で 行われた日なのです。特攻隊というと知覧などの遠い南方を思い浮かべる方も多いかと思いますが、身近なところの出来事なのです。そのことについて佐藤宮司が書かれたものと横山大尉の絶筆を宮司様のご了解を得てここに転載させていただき、改めて平和の大切さを噛みしめたいと思います。
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特攻には陸軍・海軍があるが、今回は陸軍特攻横山善治について記しておきたい。
善治は水戸市七軒町で生まれ、父を秀三郎、母はふゆという。名の通り次男である。両親と兄の四人家族で、鍍金工場を営んでいた。
小学校より成績優秀で、浜田尋常小学校、茨城中学校を卒業、中学三年生では、特待生と首席であった。明治学院へと進むが、昭和十八年十一月水戸東部三七部隊に入営し、見習士官として八日市の九四部隊に転属した。
昭和十九年十月、マリアナ沖海戦の戦果を受けて神風特別攻撃隊が編成されるや、各隊でも仮編成が行われ、二〇六隊の正式隊員に選出される。血書で特攻を志願する者も多く、善治も再三の嘆願で認められている。
八月二日、マリアナ基地から飛来したB29により水戸は手当たり次第に焼き尽くされた。水戸空襲を期に、出動準備命令が下る。
八月十三日午後五時四十分、「発進!」の掛け声と共に、善治一人が乗った二式複座戦闘機「屠龍」が離陸。特攻隊員たちは飛び立つと必ず別れを惜しむかのように、上空を二~三度旋回して遠ざかって行ったという。
幸いにも善治は水戸上空を数回旋回して、鹿島灘に向けて飛び立った。善治は巡洋艦に突撃し、薄暮の太平洋を照らした。
【両親宛の絶筆】
私は突然征く事になりました。何も言ひ残す事はありません。只戦が勝つまで頑張ってください。充分健康には注意して・・・
私は必ず立派に目的を達成します。私は今迄只本当に御両親様にお世話になり又御心配をおかけした事はお許しください。今迄御両親様には何とかして安らかな生活をさせたいと思っておりました。それも出来ませんでした。愚人の空想です。
ホンノ少しではありますが、このトランクに入っている品、私が一生懸命ためたものです。食べたかったものも食べずにためました。
大きな箱に入っている清酒その他の品は、七月三十日出撃準備命令と同時に出撃者のみに頂いたものです。生缶等皆様と一緒に食べたかったのですが、それも出来ませんでした。本当につまらないものばかりですが、これが私の最初で最後の心からの品です。箱の中の品は私の写真と一緒に食べてください。(中略)
では皆様、十分健康に注意され最後まで頑張ってください。
私は立派にやります。
さやうなら。