福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

沖永良部島に西郷隆盛の足跡を訪ねる

〇今回の沖永良部島訪問のもう一つの目的は、西郷隆盛の足跡を訪ねる旅。西郷は、水戸藩が大きく関わった安政の大獄後、薩摩藩主島津久光と対立して、薩摩藩の南端の沖永良部島に遠流。その囚われた地に訪れ、像と一緒に復元された牢獄に入りました。

 西郷隆盛は、水戸の藤田東湖の影響を大きく受けております。

 藤田東湖は、回天詩史で「三決死矣而不死 二十五回渡刀水 五乞閑地不得閑 三十九年七處徙」としています。つまり、3回死を覚悟しながら死ねず、25回水戸と江戸を行き来し、5回斉昭公に暇を乞いながら、結局39年間で7回も水戸藩にお仕えして江戸と水戸とで引っ越すことになります。

 でもそれは、「苟明大義正人心 皇道奚患不興起」。つまり、大義を明らかにして人心を正そうとするなら、かならず皇道つまり日本の歴史の正統性から生まれる正しい道が必ず興るのだ、としています。

 一方、西郷が沖永良部で囚われている時に詠んだ「獄中有感」という詩では、「南嶼俘囚独竊生 生死何疑天附与 願留魂魄護皇城」と詠われています。すなわち、南の島で囚われの人となって、おめおめと生き延びながら、生死は天の与えるものであることは疑いようもなく、そうであるなら自らの魂を留めて、天皇を護りたいとしているのです。

 つまり、藤田東湖の「回天詩史」と西郷隆盛の「獄中有感」は、まったく同じことを言っているのです。師弟関係にあった二人だからこそ、それは当然のことなのかもしれません。私も、4回もの落選中は、折に触れ藤田と西郷の詩を詠みながら、自らを慰めて居ました。

 令和の時代になって、また同じようなことが必要とされる時代が来たのかもしれません。沖永良部の海には、「そんなこと関係ないよ」とでも言うように、海亀がのんびりと泳いでいました。