〇畏友小幡績先生の論考。同世代の同時期に霞ヶ関にいた者として、同じような考えだ。
【なぜ、日本経済は停滞を続けているのか。それは、いわゆる「失われた30年」を総括せず、放置しているからだ。過去の失敗を分析して原因を明らかにすることをせず、ただ反省をしたふりを続けているからだ】
【1990年代に続き、21世紀に入ってからの10年間も、日本経済が停滞したという認識が続いたのは、21世紀の日本経済に対応した新しいシステム、ガバナンスメカニズムという狭い領域だけでなく、日本経済全体の新しいシステムが提示されなかったこと、新しいシステムに移行しようとしなかったことによるのだ】
【この間、日本政府は何をしていたのか。国民の支持を受けた小泉純一郎首相のもとで、道路公団民営化、郵政解散、という政治的なトリックを目的とした規制緩和議論というアリバイ作りに終始していた。実際の経済政策は、円安誘導で、安値たたき売り輸出および非正規雇用の柔軟化・拡大により、「派遣」「フリーター」という流行語を生みだし、コストカットによる安売り戦略に終始したのである。規制緩和ではなく、新しい規制のモデルへとモデルチェンジすることが必要だったのである。規制とはシステムである。ただ、古いシステムをぶっ壊す、という掛け声だけが勇ましく響き、新しいシステムをそこへ置き換えなかったから、日本経済にはシステムもモデルもなくなってしまったのである】
【アベノミクスとは、1980年代の日本のような輸出立国、内需不足をダンピング輸出でしのぐというモデルを再び採用したものだ。小泉政権では、リストラ、コストカットであったが、アベノミクスでは円安という日本の国富を大幅に目減りさせることによる安売り戦略であった】
【この間、新しいシステム、日本モデルを提示することはなかった。制度学派的な議論が流行し、日本型システムとは、という議論が1980年代にはじまり、1990年代、2000年に入っても続いたが、それは日本の過去を正当化したり、説明のつじつまを合わせて喜んだりしているだけで、新しいモデルは提案されなかった。】
これらの論点は、すべて1995年に私が通産省に入省したころから論じられ、私たちはその壁を乗り越えようとしてきたが叶わず、30年が経過してしまった。その一端を、拙著『令和の政治改革』で論じている(入手ご希望の方は連絡ください)。
私は、問題の根本には、政治家も官僚も経営者も学者も、試験問題が与えられて初めて「正解」を求めようとする戦後日本の受験秀才がエリート層を形成してきたことにあると考える。新しいシステムやモデルを生むのは、幅広い哲学や歴史観、美学などに基づく教養であり、与えられた試験問題をせっせと解くよりそうしたものに応じない異端の精神だ。
今や私も、54歳になってしまった。大蔵省を辞した小幡先生は、経済学者となり新しいモデルの提案を経済学者に求めている。私は、この30年間を新しい日本モデル・システムを生むことができる統治システムを作るべく、官僚や政治家として行政改革・規制改革・政治改革に取り組んできたが、その多くの時間は浪人と野党としての時間になってしまった。
残された時間は、長くはない。身命を賭して、日本の復活のために政治改革に取り組むしかない。