福島のぶゆきアーカイブ

衆議院議員 福島のぶゆきの活動記録です

あれから2年

東日本大震災から2年がたちました。あの日、私は水戸市内を挨拶回りをしている途中、下市の備前堀の橋の上で震災に遭遇しました。橋がトランポリンのように波打ち、堀の水が川底が見えるくらい波立ち、目の前のビルの窓ガラスがバラバラと落ちてきました。「これは大変なことになった」と家に帰る途中では、全壊となった家や折り重なって斜めになった電柱が目に飛び込んできました。私の家を含め周りの家では大谷石の塀が倒れて道を塞いでいて、近所の人と力を合わせてそれらを取り除きました。余震が続く中、電気も水道もガスもない寒い夜、車の中から家族3人で眺めた夜空の星の綺麗さを、今でもはっきりと覚えております。
 現職時代は「地元のためのことなら何でもやろう」という思いで、とかく東北3県に比べて忘れられがちだった茨城県の復興のために走り回りました。おかげさまで水戸市の上市商店街の復興特区の認定、若干の混乱はあったものの中小企業グループ補助金の獲得、農林水産物や観光物産・不動産等の原子力風評被害対策など、私の地元は他の地域と比べてもそれなりの復興対策が実現できたのではないかと思っております。今週には震災で校舎が全壊となった私立学校の新校舎竣工式にお招きいただいております。大きな被害を受けた水戸市民の誇りでもある弘道館の修復も始まりました。水戸市城里町の庁舎の再建も、議会での議論がまとまって動き始めようとしております。何よりも風評被害に苦しむ人たちが、あちこちで立ち上がって復興イベントを仕掛けたり、新商品を開発したりして頑張っている姿を見て、頼もしく、嬉しく思っております。
 一方、今なお東北3県では多くの行方不明者がおり、新しい街づくりも進んでおりません。何よりも福島第一発電の廃炉に向けた道のりはまだまだ長く、原子力災害の被害を受けた方が落ち着ける状況には至っておりません。既存の法律や制度が問題で復興が進まないということがないよう、現職の国会議員の方々には、細かい一つ一つの問題点を解決するための立法府としての役割を、党派を超えて果たしていただきたいと思います。
 1999年に東海村で起きたJCO事故は我が国初の本格的な原子力災害であり、私はその後の原子力防災体制の構築に2ヶ月間ほとんど家に帰らずに取り組みました。しかし、それから10年が立ってみると、JCO事故の教訓は忘れ去られ、事業仕分けの「仕分け人」となった私が、自らが創設した原子力防災訓練のための予算の仕分けをするという羽目に陥りました。その予算は、当初の目的は忘れ去られ、単なる役所の天下り外郭団体のメシの種となってしまっていたのです。そして、今回の原子力災害では、JCO事故の経験が全く生かされない対応がなされてしまったことは、私の一生の痛恨です。
 人間は物事を忘れることで時を重ねていく動物です。ましてや役所の人事は1,2年で異動を繰り返すため、10年経つとその経験というものは跡形もなく風化しがちです。今なお終息していない東日本大震災。テレビや新聞で報道される被災されたそれぞれの家族の物語に、私たちは大きく心を動かされます。でも、10年後、20年後も今と同じような思いで大災害に備えることができているのか、日本の社会システムそのものが問われているのではないでしょうか。-----