今年の参議院選挙は憲法改正が争点になるという。憲法は国の統治の根本規範といえども、逆にそれ故、その時々の時代背景などに応じて正当な手続きに基づいて国民の意志として変えることがあるのは当然である、と私は考える。特定の条文の改正には反対という議論はあっても、そもそも「憲法は変えるべからず」という「護憲」論を唱えることは、日本が近代法治国家であることの意思を放棄しているに等しい。
実際に現行憲法では、89条で「公の支配に属しない」教育の事業に公金の支出を禁止するという条文があるため、文科省はこの規定を根拠に頑なに学校法人以外の教育機関に予算措置を講じることを拒んでいたり、第92条で「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」と極めてあいまいで投げやりな条文で地方自治に関する規定がなされているため、地方自治法では地方自治を実現するためというよりは、あたかも地方自治体を国が管理するためというような事細かな規制が規定されていたり、さまざまな問題が存在している。こうした憲法に関わるような本質的な議論は、現行憲法96条で改正発議要件が衆参両委員の議員の3分の2以上と極めて厳しいものとなっていることによって、なかなか行われ得なくなっている。選挙制度にしても、私は衆参を対等合併する一院論者であるが、それを実現するために憲法改正が必要だとなった途端に、そのような議論は空理空論であるとして検討の俎上から退けられてしまうのだ。
私は「憲法改正など半永久的に無理」という状況における知的怠慢、本質的議論の回避が、戦後日本のさまざまな矛盾を立法の現場で解決することから逃げてきた大きな要因であると考えており、憲法96条の改正は今こそすべきであると強く考えている。そもそも、私が政治家を志した原点は戦後日本のさまざまな桎梏を解き放つことであるから、憲法改正は私の政治的な原点である。
こういうことを言うと、すぐに「日本を戦争の道に歩ませるのか」とか「お前は右翼だ」などと情緒的な批判が返ってくる。私は一部の「保守」を名乗る方々のように「日米の集団的自衛権の邪魔になるから9条を変えるべし」などという便宜上の理由から改憲論を言っているのではない。憲法が国の根本規範だからこそ、国民によって選ばれた国会議員が真剣に憲法の一つ一つの条文の在り方について議論し、国民投票に付して国民に選択をしていただく積み重ねをすることでこの国の政治や社会が成熟していく、と考えているからこそ改憲論を唱えているのである。
そもそも、憲法96条では衆参両院の3分の2以上の賛成による発議とともに、国民投票による過半数の賛成を得ることを憲法改正の要件としている。憲法で国民投票に関する規定を置いているのはこの条項のみであるから、これは大変重い条文である。この96条改正に反対もしくは慎重論を唱える人たちは、「日本人は戦争が大好きだから、戦争をしやすくなるような憲法改正案を国会が提案したら、それが実現してしまう」とでも日本人のことを思っているのであろうか? 衆参両院の議員も国民によって選ばれた存在であるが、その者の意思の方が国民の意思より絶対的に正しいから、国民の判断より国会議員の判断に重きを置いた方がよい、とでも考えているのであろうか? そもそも国民投票で否決されるような改憲案を出すような政治勢力が、選挙における投票によって衆参両院の議席の3分の2も占めることができるであろうか? こうして考えると、国会の発議要件と国民投票での成立要件に差を設けている合理性はないのではないかと私は考える。
そういう意味では「96条を改正したら日本は間違えた道を歩む」と主張する政治家は、国民を根本的には信頼していない政治家であり、私は日本の政治家たる資格はないのではないかと考える。それでも反対という政治勢力もあるだろうが、そのような国民観であるなら、それも一つの判断であろう。「改正する中身もないのに96条を改正するのは反対だ」と一見もっともな主張をする政治家もいるが、それこそ本質的な問題から逃げようとしている言い訳である。個々の条文の改正の議論と96条改正の議論は、別々の問題である。
私は、今こそ96条の改正案を今国会に提出して採決を行うべきであると考える。その判断に立たされた時に、それぞれの政党、政治家が、近代法治国家としての日本の在り方をどう考えるのか、国民と政治家の関係をどうとらえるのか、といった政治家としての根っこの考え方を示さざるを得なくなることであろう。そこから、私は日本の政治の本当の意味での成熟が始まると確信している。私自身も、それぞれの政党や政治家がどのような根拠でどのような選択をするのかをじっくりと見ながら、自らの行動の行く末を考えていきたいものだ。
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