安保法案の成立から一夜明けた議員会館前は、昨日までの喧騒が嘘のように静かでさわやかな朝で、路上に落ちた銀杏の香りがいつの間にか秋がやってきたことを気付かせてくれました。
3日間の深夜までの国会対応の中で、私は今何とも言えない徒労感に浸っております。おそらく安保法案賛成という人たちでも、今我が国周辺で起きている事態に対して、現在の法制度でどこか不備で、今回の法律の成立で具体的にどのような対応が実現するのかを語れる人はいないでしょう。与党の議員も防衛大臣も、そして総理大臣も同様でしょう。「抑止力」などともっともらしく説明されておりますが、「米国が喜んでくれるだろう」という希望的観測以上の具体的に何が抑止力につながるのか、明確に説明できる人もいないでしょう。
一方で、この法律は明確に憲法違反となる活動を容認し得るものであるものの、「憲法違反」という紋切り型の批判だけで思考が停止してよいものなのか。「戦争法案」とレッテル貼りする前に、安全保障環境が変化する中で、現行憲法の下では何ができて、これまでの法制度のどこまでを現行憲法の下で変えられて、どこか...らは憲法を改正しなければ実現しえないのか、冷静な議論は行われたのであろうか、とも思います。
言うまでもなく国会は立法府です。法律を作る国権の最高機関にいる人間が、法律を作成し提出する立場にいる人間も、それを検討すべき人間もどちらとも、このような冷静な議論が出来ないことこそが、戦後日本政治の限界なのではないでしょうか。維新の党が一部は民主党と連携して、立派な対案を出されたのにもかかわらず、両案を並べて検討するまともな審議はなされず、官僚と内閣法制局が作った政府案がそのまま立法府で修正もできずに通ってしまうことこそが、「立法府」という名称が看板に偽りありのことを示しているのです。このような国会を前にして、国民やメディアも、安保法案に無条件で賛成=保守、何が何でも反対=リベラルという戦後の冷戦時代の思考とレッテル張りに凝り固まることは意味がないのではないでしょうか。
あの参議院での、まことにお見せするのがお恥ずかしい限りの喧騒の中に身を置き、「おしくらまんじゅう」をし、反対・賛成の絶叫調の演説(そう言えば自民党が国対の指示で大人しかったのに対して、同じ与党の公明党の若い議員たちは、「どうしちゃったの?」と思うぐらい勇ましくヤジっていた)をずっと聞く中で、いつまでこのような政治を続けていくのか、ということを改めて重く考えさせいただきました。(ただ一つ、枝野幹事長の演説は、偏見なく聞いていただければ今の日本の政治に決定的に欠けているものを示す歴史的な大演説でした。)
今の日本に必要なことは、自民党がどうの、民主党がどうのという既存政党の優劣の比較ではありません。どちらが保守で、どちらがリベラルかなどとレッテルを貼っても意味がありません。そのようなドグマに浸ったまま、実質的な意味のない対立を繰り返す我が国の戦後政治をどう乗り越えていくことが出来るのか、ということなのです。青年時代に冷戦の終結を目の当たりにし、自民党や社会党といった55年体制の政党に所属をしたことのない私たちの世代の政治家が、新しい理念の下で新しい政治の流れを作っていかなければならない、今日からそれに向けて行動していかなければならない、そのようなことを改めて胸に誓いました。
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