〇イスラエル3日目。

この弾丸ツアーの日程はタイト。今日も朝8:30から外務省のシャギール北東アジア局長との意見交換。イスラエルには資源がないため、頭脳だけが頼り。教育・科学技術・人材に重点的に資源を投入し、失敗を認めリスクをとる社会性からスタートアップ企業が盛んという話を聞き、日本と条件は同じでも社会性が対照的な両国の補完関係などについて議論を交わしました。私からは中国との経済関係について問いましたが、イスラエルは経済安保には配慮しつつも中国ともうまくやって行こうとしていることが伺えました。
続いてサール外相と面会。これまでの政治家としての経歴からも野心家のサール外相は、高圧的に一方的に持論をまくしたてて、正直言ってあまり好感を持てませんでした。発言は、まさにミニ・トランプ。何度も目が点になりました。全国比例代表制で最低得票率基準が3.25%のイスラエルの政治は、多党乱立になり連立政権が常態化しています。ネタニヤフ首相のリクードも第一党であるものの少数与党であり、こうした人物を外相に入れて連立を維持しなければならないということは、日本の選挙制度改革においても参考になります。外務省の外には、ネタニヤフ政権のパレスチナ政策に抗議する市民団体のテントが並んでいました。
その後私と大岡敏孝議員(弟の同級で同窓)は、イスラエル国防軍等を訪問する一行とは離れ、弟と弟の友人のパレスチナ人ジャーナリストの案内で東エルサレム、ヨルダン川西岸に。別の視点からのイスラエルも見なければなりません。弟は、黄金のドームが見える丘の上の外国人用のマンションに住んでいるのですが、眼下の谷はパレスチナ人居住地区です。急峻な谷間で居住条件の悪いこの地域に、1948年の第一次中東戦争でエルサレム旧市街から追われてきた人たちが住み着いたと言います。
10・7テロ事件以降、何かと理由を付けて政府は立ち退きを命じてきて、私が訪れたアフマットさんの家はそれに応じなかったところ数日前にブルドーザがやってきて建物を有無を言わさず壊して行ったとのことです。元々イスラエルの警察官だったアフマットさんは、息子の家族と共に住んでいましたが、10・7以降警察官の職も解雇され、登記もして正式に所有していた家を失い、途方に暮れていました。これまで会ったイスラエルの首脳は、「イスラエル人口の20%はパレスチナ人で、うまく共存している」と言いますが、実態はまったく違うようです。

向かいにある斜面にも、家がへばりつくように建てられていますが、これらの建物もイスラエル人に明け渡すように求められていると言います。ユダヤ人に奪われた家には、イスラエルの国旗が掲げられているのですぐにわかります。街の壁に落書きされていたイスラム教の象徴である月のマークの上には、ユダヤ教の象徴である六芒星が上書きされていました。ここでも地域コミュニティーのリーダーや親兄弟の大家族で住んでいる人に話を聞きましたが、ほとんどのパレスチナ人は職を失っていて、家もなくなったらどうするのか、と途方に暮れていました。
私たちが話を聞いていると、銃を持った人相の悪い二人のユダヤ人自警団の若者がこちらにやってきました。危険を察して私たちはその場を去ることにしたのですが、そこに投石に備えて厳重に金網で固めたスクールバスがやってきて、子どもたちが降りてきました。自警団は子どもを守るためにやってきたのです。そうまでしてなぜユダヤ人はパレスチナ人が住む場所を奪いたいのか、私にはまったく理解できません。これも、いまエルサレムで起きている現実なのです。

次に、東エルサレムのシュファート難民キャンプを訪れました。ここも第一次中東戦争で市内を追われた難民の住む地ですが、もうだいぶ時間が経つためビルが立ち並んでいて、私たちが想像するテント張りの難民キャンプとは異なります。それでも、高い壁によってエルサレム市外とは分けられ、近代的で清潔な西エルサレムと別世界の混濁した街になっています。
10・7以降国連パレスチナ難民救済機構(UNRWA)のイスラエルでの活動ができなくなっため、これらが運営していた行政代行組織や学校、医療機関が閉鎖されていました。この街には入る時ではなく出る時に、検問所で厳しいチェックを受けます。この街から危険人物が市内に入らないようにするためです。パレスチナ人が運転するタクシーにパレスチナ人と共に出てくる日本人の私たちはここで止められ、訪問目的などを詰問されました。「私たちはあなた方にここに来てほしくない」とぶっきらぼうに言われ、ここからは出せないからエルサレムに行く出口と逆の出口から出ていけ、と嫌がらせをされました。

でも、その出口はヨルダン川西岸に繋がる出口。ちょうど私たちの目的地です。こちら側の出口にはチェックポイントはなく、石ころだらけのわずかにオリーブが植えられている丘が続く懐かしい中東らしい風景を通って、ヨルダン川西岸の最大都市でパレスチナ自治区の事実上の首都であるラマッラに着きました。ラマッラでは、まずパレスチナの初代大統領であるアラファト議長の墓へ。一緒に写っているのが弟です。博物館になっているこの施設の隣が、第2代大統領のアッバース議長の宮殿のような壮麗な居宅。写真を撮ろうとしてたら、銃を持った守衛から止められました。途中、道端の店で買ったシャワルマ(ケバブのようなもの)を車中で齧りながら、パレスチナにおいて民主的で近代的な行政機構を作ることの難しさに思いを馳せました。
テルアビブ・ベングリオン空港に向かう途中、ウンム・サッファ村というところに立ち寄りました。人口約800人。村人が知る限り100年以上前から住んでいると言います。しばらく前に向かい側の丘にユダヤ人の入植地ができて、10・7以降国道から入る道はパレスチナ人が入植地に行けないように閉鎖されました。国道を渡った先にある村が共同所有する広大なオリーブ畑に農作業に入ろうとすると銃で撃たれるため、村は農業収入を失うこととなりました。遠くから怯えるような目で見てた村民に近づき、話を聞いてみました。
つい最近にこの村のある丘の頂上にユダヤ人のアウトポスト(入植のための前線基地)ができて、これまでにユダヤ入植者によって2人の村民が射殺されたと言います。少し前にユダヤ人入植者に放火された家にも案内してくれました。別の家には、手榴弾が投げ込まれたと言います。ユダヤ人は、二つの丘の頂上に入植地を形成することで、谷間にある広大な優良農地も含むこの地をまとめて奪おうとしているのです。こうした暴力に対して、パレスチナ人はなすすべはありません。村人は「もう仕事もないし、外に出ることもできないし。でも、いずれ追い出されてしまうだろう。追い出されても行くところがはない」と力なく語っていました。

韓国の支援機関によって運営されていた学校も休校となり、校庭で遊んでいた子どもたちが集まってきて、屈託のない澄んだ瞳に癒されましたが、見送る途中で「僕らは向こうの丘の監視所から見られていて、この先まで行くと撃たれるから、ここでさようなら」と言われました。あまりの不条理に、その怒りのぶつけ場がない思いになりました。
ヨルダン川西岸からイスラエルに入る検問所でも再び止められ、私たちの車は別レーンでの取り調べ。比較的すぐに通してくれましたが、ものすごいストレスを感じました。パレスチナ人にとってはこれが日常なのですから、どれだけの辛い思いをしながら暮らしているのか容易に想像がつきます。帰りもイスラエル人訪日観光客で満席のエルアル航空のエコノミー席で、行きの飛行機から毎食食べてきた最後のフムス(ひよこ豆のペースト)を口に入れて、ようやく先ほど帰ってきました。
あまりに濃厚な体験だったため、一度頭を冷やして、客観的に考えられるようになってから、今回の訪問の総括を書き記そうと思います。